第1話 ワトソンの靴は少し大きい
ジョン・H・ワトソン博士は、三年前の冬に死んでいる。
だから、ベイカー街221Bで暖炉に石炭をくべている「ワトソン」は偽物だ。十九歳の、女の。胸にさらしを巻き、声を少し低くして、靴は故人の形見に靴下を詰めて履いている。歩くたびにかかとが浮くのが、いまだに腹立たしい。
本当の名前はジョーン。ジョンに伸ばし棒を足しただけなんて、我ながら手抜きだと思う。もっとも、本当に隠さなければならないのは、名前よりも親のほうなのだけれど。
「ワトソン君、客だ」
ソファに脚を投げ出したまま、シャーロック・ホームズ先生が言った。窓の外を見もしない。
「辻馬車の戸を閉める音に、釣り銭を受け取る間がなかった。急ぎの用件だね」
世間では、先生は推理の神様ということになっている。半分は本当だ。観察と芝居にかけては、この人の右に出る者はいない。けれど、拾い集めた断片を検算して一本の筋に通す係は、たいてい私だった。
結論を口にするのが先生で、紅茶のスプーンを鳴らすのが私。一回なら「その調子」、二回なら「外れ」。ふたりだけの合図だ。
先生は何も言わず、私のカップに砂糖を二つ落とした。本物のワトソンが、そうして飲んでいたからだ。私は砂糖なしが好きなのだけれど、黙って飲むことにしている。
階段を駆け上がってきたのは、四十絡みの小柄な男だった。上着の袖口は擦り切れててかてかと光り、顔は潮風に焼けている。
「ロイズ保険組合の査定人、ペンブルックです。先生、どうか――」
「事務机に張りついているのに、肌は水夫のそれ。海の上を知っている事務屋なら、ロイズの船舶査定人だ。違いますか」
ペンブルック氏が目を丸くする。私はカップにスプーンを一度だけ当てた。かちん、と澄んだ音がした。
彼が語ったのは、こんな話だった。
昨夜の未明、テムズ河口の沖で、無人の二本マスト帆船が見つかった。沿岸警備隊が曳航のために乗り込むと、食堂の卓には十一人分の朝食が並んでいた。ボートは吊り台に残ったまま、帆は畳まれ、舵は固定され、荒れた形跡もない。ただ、乗員十一名だけが、ひとり残らずいなかった。
「発見した警備兵が、卓の紅茶に指を入れたそうです。ぬるかった、と」
先生は目を閉じ、肘掛けを指先で叩いている。面白がっている時の癖だ。
そして私の頭の中では、勝手に計算が始まっていた。悪い癖その一。
厚手の陶器のカップ。夜明け前の海の上なら、室温は十度ほど。入れたての紅茶が八十度として、指が「ぬるい」と感じる四十度まで落ちるのに、せいぜい二十分から三十分。
つまり十一人は、見つかる半時間前まで、確かにそこにいたことになる。ボートも使わず、荒れてもいない海の上で、人間が十一人。
けれど、引っかかったのはそこではなかった。
「ペンブルックさん。その船は、当直を置いていなかったのですか」
「え? いえ、航海中ですから、もちろん交代で」
「海の上で、乗員全員が同時に食卓につく船はありません。十一人分の朝食を一斉に並べる理由は、誰かが『そう見せたかった』以外に思いつかないのです」
言ってから、しまった、と思った。口が勝手に動いた。先生がにやりと笑う。
「僕の助手は、黙っている時より喋っている時のほうが怖いんだ」
不可能だ、と最初は思った。でも、不可能なんてものはない。あるのは、手間のかかった嘘だけだ。そして嘘は、かけた手間の分だけ、どこかに跡を残す。
悪い癖その二は、聞いた話を自分の手で再現してみないと信じられないこと。この紅茶も、帰ったらきっと淹れて測ってしまう。去年は屋根裏で煙幕を作って、ハドソン夫人に本気で叱られた。
「決まりだ。船を見に行こう。ペンブルックさん、船名を伺っても?」
ペンブルック氏は手帳を開いた。
「船首に白い文字で。『エディス・ケイト号』です」
手が滑った。スプーンがカップの縁で、かちん、かちんと二度鳴る。「外れ」の合図。先生が一瞬だけ、怪訝そうに私を見た。
私は何でもないふりでカップを持ち直し、指先の震えを湯気のせいにした。
エディス・ケイト。
それは、世間が「モリアーティ教授」と呼んだ人の――私の母の、誰にも知られていないはずの本名だった。




