初夜の失言ですべてを失った坊ちゃまの、その後
「君を愛することはない!!自由にしても構わないが、品位を落とす真似はするなよ!」
……。
この暴言を初夜に浴びせられた貴族令嬢、いや、今日から夫人となった女性は、口を開けたまま固まっていた。
わあ。
最近ご無沙汰だった、初夜の日に「愛することはない」宣言だあ。
私、エナメルは今夜、初夜を迎える奥様のお支度を任されていた。
髪を整え、香油を使い、夜着も選び、さあこれからというときに旦那様が部屋へやってきて、先ほどの寝言をほざいて出ていったのである。
しばらく呆然としていた奥様の顔が、やがて悲しそうに俯いた。
こんなときは。
「さあ、奥様。どうやら本日は何もなさらないようでございます。私の特製のお茶を淹れましたので、少しお休みくださいませ」
「……ありがとう」
奥様は辛そうな顔のまま茶を口へ運ぶ。
すると。
「ほわあ……本当においしいですね」
少しだけ表情が緩んだ。
喜んでいただけて何より。
私はしばらく奥様のお話し相手をし、落ち着いて眠りにつかれたことを確認した。
さて。
次はあちらだ。
私は廊下を歩き、旦那様の部屋の扉を開けた。
「坊ちゃま!!先ほどはどういうおつもりですか!!」
「うわっ!エナメル!?」
何を隠そう。
私エナメルは、先ほどの寝言を口にした旦那様付きのメイドだった。
坊ちゃまがお生まれになった20年前、この家に住み込みで雇われ、それからずっとお世話をしてきた。
今回の結婚を機に、近いうちに父君から爵位を譲られ、正式に当主となる予定でもあった。
育て方が悪かったのだろうか。
いや。
私は育ててはいないのだけれど。
なぜこんなアホに育ってしまったのだろう。
きっと、あの教育係が悪かったのだ。
貴族としての責任よりも、男たるもの女より上に立つべし、などという妙な考えばかり吹き込んでいた。
もっとも、それを20歳になるまで疑いもしなかった坊ちゃまにも問題はあるのだけれど。
「エナメル、何を怒っているんだ?」
「何を、ではございません!」
「さきほどのことか?私は正直に話しただけだぞ」
「初夜に?」
「初夜だからこそだ」
坊ちゃまは真顔だった。
……これは重症ですね。
「私は彼女を嫌ってはいない。だが、愛してもいない。それなのに愛しているふりをして夫婦として暮らす方が不誠実だろう?」
「それで『君を愛することはない』と?」
「ああ」
「『自由にしても構わないが、品位を落とす真似はするな』と?」
「ああ」
「坊ちゃま」
「なんだ?」
「アホでございますね」
「なぜだ!?」
翌朝。
もっと大変なことになった。
奥様は実家へ手紙を出していた。
政略結婚とはいえ、初夜にあの扱いである。
しかも今回の婚姻には双方の家同士の協力関係も含まれていたため、奥様の実家は激怒した。
さらに連絡を受けた坊ちゃまの父君が、領地から大慌てで戻ってきた。
「何故ですか!?なぜ俺がこんな目に!」
「それが分からないから、お前に爵位を継がせることはできん!」
屋敷中に声が響いた。
「今回の婚姻は解消する。お前を嫡男から外し、この家からも出す。爵位を継がせる話も白紙だ!」
「父上!」
「先方には私から詫びる!お前が何をしたのか理解できるまで帰ってくるな!」
こうして。
坊ちゃまは貴族ではなくなってしまいました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
町外れの小さな貸し部屋で、坊ちゃまは椅子に座り、ぼんやりと天井を見上げていた。
「エナメル……私は一体、何を間違えたんだろうな」
「たくさんございますが、どれから参りましょう?」
「少しは慰めてくれ」
私は茶を置いた。
「どうぞ」
「……うまい」
「ありがとうございます」
坊ちゃまは湯気を眺めながら、小さく息を吐いた。
「政略結婚の相手とはいえ、大事にすべきだったことは分かっている」
「はい」
「だが、愛情が持てなかったのも事実だ。それを隠して夫婦として暮らすのは、相手に不誠実だと思ったんだ」
なるほど。
坊ちゃまなりに誠意を見せたつもりだったらしい。
「お気持ちは分からなくもございません」
「だろう?」
「ですが、初夜に申すことではございません」
「……」
「あと、『品位を落とす真似はするな』は余計でございましたね」
「……」
「かなり余計でございました」
「もう分かった」
坊ちゃまは頭を抱えた。
悪人ではないのだ。
ただ。
ものすごく言葉が足りない。
そして余計な言葉は多い。
何とも難儀なお方である。
「ご安心くださいませ。このエナメルは、これからも坊ちゃまにお仕えいたします」
「……私にはもう、爵位も屋敷もないぞ」
「存じております」
「給金だって払えない」
「当面の住居と食事くらいなら、私の蓄えで何とかなります」
「お前、そんなに持っているのか?」
「長くメイドをしておりますので」
何年とは申しません。
「ですが、坊ちゃま」
「なんだ?」
「これからどうなさいますか?」
坊ちゃまは黙った。
今まで、貴族として生きる道しか知らなかった。
だが、もうそれはない。
「……働く」
しばらくして、そう答えた。
「私は働く。何ができるかは分からないが、自分で食べていかなければならないだろう」
私は頭を下げた。
「では、そういたしましょう」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
坊ちゃまには多少の魔力があった。
貴族として読み書きも計算も習っている。
そこで最初に見つけた仕事は、魔道具工房の補助だった。
魔道具の製作補助や魔力に関わる調整、完成品の確認などを行う仕事である。
意外にも。
坊ちゃまは仕事そのものはよくできた。
「新人にしては筋がいいな」
工房主にも褒められた。
私も少し安心した。
三日後。
坊ちゃまは帰ってきた。
「クビになった」
早いですね。
「何をなさったのです?」
「何もしていない」
詳しく聞いてみた。
職人の一人が作った魔道具を見て、
『この術式は効率が悪いな』
と言った。
別の職人には、
『そのやり方では魔力を無駄にしているぞ』
と言った。
客が購入しようとした高価な魔道具には、
『その用途ならこちらの安い方で十分だ。高い方を買う意味がない』
と言った。
「間違っているか?」
「間違ってはいないのでしょうね」
「なら何故だ?」
「坊ちゃま」
「なんだ?」
「初夜とまったく同じ失敗をなさっております」
「……」
正しいことを言う。
それ自体は悪いことではない。
だが。
正しいと思ったことを伝えても、相手が気持ちよく受け入れてくれるとは限らない。
「相手にも積み重ねてきた経験や考えがございます。正しいと思ったことを、そのまま相手へ投げつければよいというものではございません」
「……難しいな」
「はい」
私は茶を淹れた。
「ですが、坊ちゃまなら覚えられますよ」
「そう思うか?」
「20年見ておりますので」
「それは信用していいのか?」
「どうでしょう」
「エナメル?」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
二つ目に見つけたのは、地方を回る商隊の仕事だった。
坊ちゃまは帳簿を付け、商品の在庫を確認し、必要に応じて魔道具の点検や管理も行う。
前の工房での失敗を覚えていたらしい。
「この帳簿ですが、一か所だけ気になるところがあります」
「どこだ?」
「こちらです。私の勘違いでしたら申し訳ありませんが、確認していただけますか」
商隊主が帳簿を見る。
「……本当だ。数字が一つずれてる」
「やはり」
「よく見つけたな」
坊ちゃまが少し嬉しそうにしていた。
成長しましたね。
ある町では、商品の仕入れ交渉を任された。
貴族時代に身につけた礼儀や計算が役に立ったらしく、これもうまくいった。
「エナメル」
「はい」
「私は意外と働けるのではないか?」
「さすが、坊ちゃまです。では、お祝いに少し良い茶葉を使いましょう」
「それだけか?」
坊ちゃまは茶を一口飲む。
「……うまいな、これ」
当然でございます。
私が坊ちゃま用に特別に調合したお茶ですもの。
愛情もたっぷり。
効果も確かです。
だが、そんな生活にも失敗は訪れた。
ある日のこと。
商隊が山道を進んでいると、魔物の群れに襲われた。
護衛たちが応戦する。
私も坊ちゃまの近くへ寄った。
一頭の魔物がこちらへ飛び込んでくる。
肩から前脚へ魔力が流れた。
振り下ろす瞬間。
私はその流れを見て、一歩だけ前へ出る。
腕へ軽く触れた。
魔物の力の向きがわずかにずれ、その巨体は荷馬車の横を通り過ぎて地面へ転がった。
「エナメル!?」
「坊ちゃま、前を」
「……何だ今の動き?洗練されている。お前、本当にメイドなのか?」
「ええ。20年、メイドとして坊ちゃまの側で仕えておりました」
そんなことを言っている場合ではございません。
やがて問題が起きた。
商隊の防御用魔道具が不調を起こしたのだ。
このままでは荷馬車を守れない。
商隊主が叫ぶ。
「第三荷馬車を切り離せ!商品は捨てて構わん!予定どおり退避するぞ!」
もともと、こうした事態に備えて決めてあった手順だった。
荷を一部失ってでも、人命を優先して逃げる。
それが商隊の決まりである。
だが。
「待ってください!まだ守れます!」
坊ちゃまが防御用魔道具へ手を置いた。
「坊ちゃま、お待ちくださいませ」
私は魔力の流れを見る。
複雑な回路の一部が乱れている。
「この状態で大量の魔力を流せば――」
「だが、このままでは商品を捨てることになる!」
「荷はまた仕入れられる!」
商隊主が叫ぶ。
だが、坊ちゃまは魔道具へ魔力を流した。
防御結界が大きく広がる。
魔物の攻撃を弾いた。
皆は助かった。
荷馬車も一度は守られた。
だが。
直後。
魔道具から嫌な音がした。
ぱきん。
「……」
高価な防御用魔道具は壊れた。
さらに急激に展開した結界の反動で荷馬車の一台が横転し、積んでいた商品までかなり駄目になった。
結果として、決められていた手順どおり撤退していた場合より、大きな損失を出すことになったのである。
後日。
商隊主は坊ちゃまを呼んだ。
「お前のおかげで助かった。それには感謝してる」
「では」
「だが、俺は退避を命じた」
「……」
「あの魔道具も、荷も、お前一人のものじゃない」
坊ちゃまは黙る。
「結果だけを見れば、お前は勝手な判断をして、命は守ったが、決められていた以上の損失を出した」
「……」
「お前が皆を助けようとしたことは分かってる」
商隊主はため息をついた。
「だが商隊は、一人で動いているんじゃない」
「……」
「自分一人で責任を背負ったつもりになって、全員の判断をひっくり返すな」
坊ちゃまは何も言えなかった。
結局、今の契約期間までは働かせてもらえたが、次の契約は更新されなかった。
その夜。
坊ちゃまはまた茶を飲みながら落ち込んでいた。
「今度は人のことを考えたつもりだったんだがな」
「はい。前回よりずっとよくなっておりました」
「では、何故こうなった」
「……坊ちゃまは極端なのでございます」
「……」
「全部自分で決めてしまうところは、以前とあまり変わっておりません」
「私は皆を助けたかった」
「存じております」
「間違っていたのか?」
私は少し考えた。
「助けたいと思ったことは、間違っていないと思います」
「なら」
「ですが、責任を持つことと、一人ですべてを背負うことは違います」
坊ちゃまは黙って茶を飲んだ。
「……難しいな」
「はい」
「平民として生きるのは難しい」
「貴族として生きるのも、本当は難しかったのでございますよ」
「……そうだったな」
ようやく少し分かってきたようですね。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
三度目。
坊ちゃまが働き始めたのは、一軒の商会だった。
大商会というほどではないが、王都と地方の町を結び、多くの商品を扱っている。
最初は普通の従業員。
帳簿。
在庫管理。
荷の受け取り。
取引先との連絡。
時には魔道具の検品。
坊ちゃまは、以前よりずっと人の話を聞くようになっていた。
「こちらの仕入れを増やした方が利益は出ると思います。ただ、現場ではどうでしょうか?」
「最近あの商品、売れ行き落ちてるよ」
「そうなのか?」
「値段が上がったからね」
「なるほど。では仕入れ量はそのままにしよう」
そんな会話をしている女性がいた。
名はミリア。
坊ちゃまと同じ商会で働く平民の女性だった。
商売の現場には詳しく、坊ちゃまの知らないことをたくさん知っていた。
「これ、貴族向けなら売れると思うんだが」
「平民は買わないよ」
「何故だ?」
「高いから」
「それだけか?」
「それだけって大事だよ?」
「……なるほど」
坊ちゃまはちゃんと聞いた。
以前なら、
『いや、品質を考えればこちらの方が』
などと言っていただろう。
私は少し離れたところから、その様子を見ていた。
そのうち妙なことにも気づいた。
ミリア様が坊ちゃまの近くへ来ると、坊ちゃまの魔力の流れが、ほんの少しだけ乱れる。
……なるほど。
私は何も言わなかった。
ある日。
坊ちゃまが帰ってくる。
「エナメル」
「はい」
「今日は仕事がうまくいった」
「さようでございますか」
「ミリアが教えてくれたやり方で仕入れを変えたら、売上がかなり伸びた」
「まあ」
「何だ?」
「何もございません」
「その顔は何かあるだろう」
「ございませんよ」
私は茶を淹れた。
その後。
二人は結婚した。
求婚する少し前、坊ちゃまはミリア様へ、自分の過去をすべて話したそうだ。
「私には一度、結婚に失敗した過去がある」
「知ってるよ」
「……知っているのか?」
「結構有名だよ」
「……」
「初夜に『愛することはない』って言ったんでしょ?」
「どこまで広まっているんだ……」
お気の毒に。
「それでも、私は今度こそ――」
「うん」
「相手を大切にしながら、正直に生きたいと思っている」
「うん」
「だから」
坊ちゃまはずいぶん緊張していたそうだ。
「私と結婚してほしい」
「最初からそう言えばいいのに」
そして。
ミリア様は笑って頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さらに年月が流れた。
坊ちゃまは商会で実績を積み、やがて小さな支店を任され、さらにその支店を大きくした。
ついに、元の商会長の薦めで、独立した商会を持つことになった。
今では何人もの従業員を抱える商会長である。
爵位はない。
貴族でもない。
ただの平民。
だが。
家には妻がいて。
子供がいた。
ある日。
坊ちゃまは貴族との取引を広げるため、商人として昼のパーティーへ招かれた。
格式ばったものではなく、家族ぐるみで交流を深めるというものだ。
坊ちゃまは妻のミリア様と、まだ幼いお子様も連れて行った。
当然、私も同行する。
「妙な気分だな」
「何がでございますか?」
「昔は貴族として来ていた場所へ、今は商人として入る」
「坊ちゃまは坊ちゃまでございますよ」
もう坊ちゃまと呼ばれる年でもないんだが」
「私にとっては坊ちゃまでございます」
諦めてくださいませ。
会場へ入る。
そして。
坊ちゃまが立ち止まった。
一人の女性がいた。
隣には夫と思われる男性。
かつて。
初夜に、
『君を愛することはない』
と言われた女性。
元妻だった。
彼女も坊ちゃまに気づいた。
しばらく二人は何も言わなかった。
坊ちゃまが先に頭を下げた。
「……あの夜のことを、改めて謝らせてほしい」
元妻は目を見開いた。
「私は、正直に話すことが誠実だと思っていた」
「……」
「だが、あなたの気持ちを何一つ考えていなかった。傷つけたことにも気づいていなかった」
少し間を置いて。
「本当にすまなかった」
元妻は坊ちゃまを見つめ。
やがて小さく笑った。
「15年以上経って、ようやく謝ることができたのですね」
「ああ」
「ずいぶん時間がかかりましたわ」
「返す言葉もない」
隣にいた夫が笑う。
「妻からお話は伺っています」
坊ちゃまの顔が引きつった。
「……どこまで?」
「初夜のお話も」
「勘弁してくれ」
私は少し離れたところで茶を持ちながら見守った。
元妻が、坊ちゃまの隣にいるミリア様を見る。
そして。
その手を握っているまだ幼い子供を見る。
「幸せそうですわね」
坊ちゃまは少しだけ照れながら。
「ああ」
と答えた。
「今度は『愛することはない』などと言っていないでしょうね?」
「……一生言わない」
元妻が笑った。
ミリア様も笑った。
私も。
少しだけ笑った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
パーティーから帰る途中。
馬車の中で、坊ちゃまが窓の外を見ていた。
「エナメル」
「はい」
「私はずいぶん遠回りしたな」
「そうでございますね」
「否定しないのか」
「事実でございますので」
「……」
私は保温魔道具で温かさを保っておいた茶を差し出した。
「ですが、坊ちゃま」
「なんだ?」
「遠回りしたからこそ、今のお暮らしがあるのではございませんか?」
坊ちゃまは茶を受け取った。
「そうかもしれないな」
しばらくして。
「ところで、エナメル」
「はい」
「いつまで私についてくるつもりだ?」
私は少し考える。
昔。
爵位を失い。
家を追い出され。
何もなくなった坊ちゃまへ。
私は言った。
ずっとお仕えします、と。
なら、答えは最初から決まっている。
「ご安心くださいませ」
「?」
「爵位がなくなりましても、商会長になりましても、坊ちゃまは坊ちゃまでございますので」
「……それ、一生ついてくるという意味か?」
「さあ、どうでしょう」
「エナメル」
「はい」
坊ちゃまは少し笑った。
「ありがとう。エナメルのおかげで今の私がある」
「……」
「色々あったが、この人生で、お前に出会えたことが私の最大の幸運だ」
私は笑った。
だって。
アホの子に育っても。
少しくらい立派になっても。
私の大切な坊ちゃまに変わりはないのだから。




