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1日だけの恋人

作者: 山太郎

櫻井美咲は、ホテルのロビーで男を待っていた。


白いワンピースに薄いベージュのジャケット。結婚式の参列者として完璧な装い。鏡で確認したメイクも髪型も非の打ち所がない。けれど手のひらには、じっとりと汗が滲んでいた。足りないものはただ一つ――隣に立つ男だけだ。


午前十時。約束の時間ちょうどに、柊一真が現れた。


紺のスーツに白いシャツ、シルバーグレーのネクタイ。仕事の打ち合わせで何度か会ったことはあるが、こんなにきちんとした姿を見るのは初めてだった。整った顔立ちと長身が、スーツによって一層際立っている。


「お待たせしました」


柊は軽く会釈した。美咲は立ち上がり、バッグから白い封筒を取り出した。


「これ、前金の五万円」


「いえ、後でまとめて」


柊は受け取らず、代わりに小さな箱を差し出した。美咲が開けると、中にはシンプルなプラチナの指輪が入っていた。光を受けて、静かに輝いている。


「リアリティのために」


柊はそう言って、美咲の左手を取った。その手の温かさに、美咲は息を呑んだ。薬指に指輪を滑らせる。サイズはぴったりだった。その瞬間、美咲の心臓が不意に跳ねた。まるで本物のプロポーズを受けているような錯覚。喉の奥が、じんわりと熱くなった。


「サイズ、どうして分かったんですか」


「前回会った時、さりげなく確認しました」


「さすが営業マン」


美咲は動揺を隠すように苦笑した。この男、仕事ができると評判なのも頷ける。細かいところまで気が回る。大河内は、こんな風に自分のことを観察してくれたことがあっただろうか。


柊は美咲の手を取ったまま、顔を近づけた。


「今日一日、僕はあなたの恋人です。どんな演技も完璧にこなします。だから安心して」


その声は低く、穏やかで、不思議と美咲の緊張を解きほぐした。こんな風に優しく声をかけられたのは、いつぶりだろう。


式場への車の中、美咲は窓の外を見つめながら呟いた。


「なんで引き受けてくれたんですか。こんな馬鹿げた依頼」


「十万円は魅力的です」


「それだけ?」


柊は少し黙ってから答えた。


「あなたの目を見たからです」


「目?」


「依頼を持ちかけた時の。あの、絶対に負けたくないって燃えてる目」


美咲は自分の顔が熱くなるのを感じた。


三ヶ月前、婚約者の大河内拓也に裏切られた。相手は美咲の元親友・香織。二人は何ヶ月も前から関係を持っていて、美咲だけが何も知らなかった。


婚約破棄を告げられた時の大河内の顔を、美咲は忘れられない。


「悪いけど、香織の方が一緒にいて楽なんだ。お前はなんていうか、完璧すぎて疲れる」


完璧すぎて、疲れる。


美咲はずっと、彼のために完璧であろうとしてきたのに。料理を覚え、彼の好みに合わせて服を選び、彼の友人たちに気に入られるよう振る舞った。すべてが無駄だった。


そして極めつけは、二人から届いた結婚式の招待状だった。しかも、美咲と大河内が予約していた式場で、同じ日に。


「来てくれるよね、親友として」と香織は電話で言った。その声には、明らかな勝利の響きがあった。


「行きます」


美咲は答えた。


「おめでとう、本当に」


電話を切った後、美咲は震える手でスマートフォンを握りしめた。絶対に惨めな姿は見せない。絶対に。


「俺も似たような経験があるんです」


柊の声が、美咲を現実に引き戻した。


「一年前、婚約者に逃げられました。結婚式の二週間前に」


美咲は驚いて柊を見た。彼は前を向いたまま、淡々と続けた。


「『やっぱり愛せない』って言われて。準備は全部終わってたのに。招待状も送った後で」


「それは……ひどい」


「ええ。ひどかった」


柊は初めて美咲の方を向いた。その目には、深い理解と共感があった。


「だから分かるんです。あなたの気持ちが」


美咲の胸が熱くなった。


「見返したいって思う気持ち。悔しくて、惨めで、でも負けたくないって。その全部が」


この三ヶ月間、誰も自分の気持ちを理解してくれなかった。友人たちは「忘れた方がいい」と言い、家族は「次の人を探しなさい」と言った。みんな優しかったけれど、この痛みを本当に分かってくれる人はいなかった。


でも、目の前にいるこの男は違った。彼は美咲の痛みを、本当に理解していた。


式場に着くと、受付で香織の友人が目を丸くした。


「美咲ちゃん、久しぶり! えっと、その方は……」


「彼氏の柊です」


美咲が答えるより早く、柊が自然に腕を美咲の腰に回した。その触れ方は驚くほど自然で、まるで何年も一緒にいるカップルのようだった。美咲の体に、その温もりが伝わってくる。背中から広がる熱が、全身を包み込んだ。


「柊一真と申します。美咲とは四ヶ月前から交際しています」


その仕草も、声のトーンも、完璧だった。受付の女性は明らかに動揺している。美咲が一人で惨めに出席すると思っていたのだろう。ざまあみろ、と美咲は思った。でも同時に、柊の腕の温かさに意識が集中してしまう自分がいた。


チャペルに入ると、既に多くの参列者が席についていた。美咲たちが入ってきた瞬間、何人もの視線が集中した。特に新郎側の席からの視線が痛い。ひそひそと囁き合う声が聞こえる。


美咲の体が小さく震えた。指先が冷たくなる。その瞬間、柊の手が美咲の手を探し当てて、しっかりと握った。


「大丈夫ですか」


柊が小声で尋ねた。美咲は頷いた。


「大丈夫。あなたがいるから」


それは演技として言ったつもりだったが、不思議と本心のように響いた。そして気づいた。本当に、柊がいるから大丈夫だと思っている自分がいることに。


式が始まり、大河内と香織が入場してきた。パイプオルガンの荘厳な音楽が響く。香織の白いドレス姿を見て、美咲の胸に鋭い痛みが走った。あのドレスを着るはずだったのは、自分だったのに。あの場所に立つはずだったのは。


視界が滲んだ。涙が出そうになる。


柊の手が、ぎゅっと美咲の手を握り直した。美咲が顔を上げると、柊は前を向いたまま、小さく囁いた。


「あなたの方が、ずっと綺麗です」


その言葉に、美咲の目が潤んだ。演技だと分かっている。でも、その優しさが胸に染みた。涙を堪えるために、美咲は柊の手を握り返した。


披露宴が始まった。美咲と柊は末席に座っていたが、それでも周囲の視線を感じる。新郎新婦の席からも、大河内が何度もこちらを見ているのが分かった。


柊は完璧な恋人を演じた。料理を取り分け、グラスが空けばすぐに気づき、美咲が寒そうにすれば自分のジャケットを掛けようとする。


「寒くないですか」


「平気です。でも、ありがとう」


「無理しないでください。我慢するのが癖になってるんじゃないですか」


柊の言葉に、美咲はハッとした。確かに、大河内と付き合っていた頃、いつも我慢していた。寒くても、疲れていても、悲しくても、完璧な彼女であろうとして我慢し続けていた。


「バレてました?」


「営業の仕事してると、人の表情を読むのが得意になるんです」


柊は微笑んだ。


「あなたは笑顔の時も、どこか緊張してる。肩に力が入ってる。完璧でいなきゃって、自分を追い込んでる」


美咲は何も言えなかった。初対面に近い相手に、ここまで見抜かれているなんて。


「でも今日は、我慢しなくていいです。僕がいますから」


その言葉が、美咲の胸に深く響いた。誰かに「我慢しなくていい」と言われたのは、いつぶりだろう。


スピーチが続く中、柊は美咲の耳元に顔を寄せた。周囲から見れば、恋人同士の甘い囁きに見えるだろう。


「あの新郎、さっきからずっとこっち見てますね」


「気づいてました」


「効果ありってことですね。作戦成功」


柊は悪戯っぽく笑った。その笑顔が、美咲の緊張を解いた。気づけば、美咲も笑っていた。


「あなた、意外とお茶目なんですね」


「仕事の時は真面目にしてますけど、本当はこうなんです」


「そうなんだ」


美咲は新鮮な驚きを感じた。仕事で会っていた時の柊は、いつも冷静で完璧な営業マンだった。でも今日見せている表情は、もっと人間らしくて、温かい。こんな顔をする人だったんだ。


余興が始まった。新婦の友人たちが、香織との思い出を語っている。その中に、美咲との思い出も含まれていた。


「香織ちゃんは、いつも友達思いで。困ってる子がいたら、真っ先に助けに行く優しい子でした」


美咲の手が、テーブルの上で小さく震えた。友達思い。自分の婚約者を奪った相手が? ふざけるな。喉の奥が苦くなる。


柊が美咲の手を取った。そして自然な動作で、その手を自分の膝の上に乗せた。周囲からは見えない位置で、柊の親指が美咲の手の甲を優しく撫でる。ゆっくりと、円を描くように。


その感触が、不思議と美咲を落ち着かせた。温かくて、優しくて、守られているような安心感。呼吸が整っていく。


美咲は柊を見た。彼は前を向いたまま、でも手の動きで「大丈夫」と伝えてくれている。


この人は、言葉だけじゃなく、こんな風に気持ちを伝えてくれるんだ。美咲はそう思った。


余興が終わり、歓談の時間になった。何人かの旧友が美咲のテーブルにやってきた。


「美咲ちゃん、久しぶり! 彼氏さん、素敵ね」


「ありがとう」


「どこで知り合ったの?」


柊が自然に会話に入った。


「仕事の取引先で。美咲が担当で、最初は仕事の話ばかりしてたんですけど」


「でも柊さんがしつこく誘ってきて」


美咲が続けると、柊は苦笑した。


「しつこくって。三回断られましたからね」


「だって、取引先の人と食事なんて」


「四回目でやっとOKしてくれた時、嬉しかったなあ」


柊の語り口があまりに自然で、美咲自身も本当にそうだったような気がしてきた。二人の会話は、まるで本物のカップルのように息が合っていた。実際、柊が初めて会った時に食事に誘おうとして、躊躇したのは本当のことだ。それを思い出すと、この嘘の中に真実が混ざっているような、不思議な感覚になる。


旧友たちが去った後、美咲は柊に囁いた。


「上手ですね。本当にそんなことがあったみたい」


「半分は本当のことです」


「え?」


「あなたに初めて仕事で会った時、食事に誘いたいと思いました。でも、取引先だからって躊躇して」


柊は少し照れたように笑った。


「だから今日は、その時できなかったことを、全部やってるつもりなんです」


美咲の胸が、ドクンと大きく跳ねた。それは演技じゃない、本心だと言っているのか。それとも、これも演技の一部なのか。分からなくなってきた。でも、嬉しいという感情だけは確かだった。


新婦の中座の時間になった。香織が美咲のテーブルに近づいてくる。


「美咲、ちょっといい?」


美咲は立ち上がった。立ち上がろうとした瞬間、柊が小声で言った。


「何かあったら、すぐ戻ってきてください。迎えに行きますから」


その言葉に力をもらって、美咲は香織について廊下に出た。


控室への廊下で、香織が振り返った。相変わらずの笑顔。でもその目は笑っていない。


「来てくれて嬉しい。でも、無理してない? 彼氏連れてきて、強がっちゃって」


その憐れみを含んだ声に、美咲は笑顔を作った。


「無理なんてしてないわ。柊とは本当に幸せよ」


「そう。ならいいけど。でも急に彼氏って、ちょっと不自然じゃない?」


香織は美咲の手を見た。指輪に気づいたのだ。


「それ、もしかして……」


「そう、婚約指輪」


美咲は指輪を見せた。光が当たって、指輪が虹色に輝く。


「来月、入籍する予定なの」


嘘だった。でも、その嘘を言っている自分の声が、妙に本気に聞こえた。


香織の顔が一瞬歪んだ。唇が薄く引き結ばれる。美咲は初めて、小さな勝利を感じた。


「そう。おめでとう」


香織はそう言ったが、その声には棘があった。


「拓也より、いい人見つけたみたいね」


拓也。大河内の名前を、香織はファーストネームで呼ぶ。美咲の胸に、また痛みが走った。


でも同時に、不思議な感覚もあった。この勝利は、思っていたほど嬉しくない。むしろ、虚しい。香織の歪んだ顔を見ても、何も満たされない。


廊下を戻りながら、美咲は考えた。自分は何のためにここに来たんだっけ。見返すため? 勝つため?


でも、本当に勝ったと言えるのだろうか。


テラスに出た。新緑の庭が広がる、静かな空間。美咲は深呼吸をした。五月の風が頬を撫でる。


「ここにいましたか」


柊の声がした。振り返ると、彼が立っていた。


「心配して探しちゃいました」


「ごめんなさい。少し空気を吸いたくて」


「大丈夫ですか」


柊はテラスの手すりに寄りかかった。ポケットから煙草を取り出したが、火はつけずにただ手の中で転がしている。


「吸わないんですか」


「吸わないんです。でも、手持ち無沙汰な時につい」


美咲は思わず笑った。


「なんですか」


「完璧な演技かと思ったら、そういう隙があるんですね」


「完璧な人間なんていませんよ」


柊は煙草をポケットに戻した。そして、美咲の方を向いた。遠くから披露宴の音楽が聞こえてくる。


「櫻井さん、一つ聞いていいですか」


「なんですか」


「復讐って、終わった後どうなると思います?」


美咲は言葉に詰まった。柊は続けた。


「俺、さっき少し話しましたけど、一年前に婚約者に逃げられたんです。結婚式の二週間前に。『やっぱり愛せない』って言われて」


柊の声は淡々としていたが、その奥に深い痛みが隠れているのが分かった。


「それから一年間、俺は彼女を見返すことばかり考えてました。仕事で成功して、もっといい女性を見つけて、幸せになってる姿を見せつけたいって。毎日、そればかり考えてた」


「それで?」


「でも気づいたんです。相手を見返したところで、失ったものは戻らない。ただ時間を無駄にするだけだって」


美咲の胸に、その言葉が深く刺さった。


「半年くらい経った頃かな。街で偶然、元婚約者を見かけたんです。彼女は新しい恋人と楽しそうに歩いてた。その瞬間、俺は思ったんです。ああ、自分は何をしてたんだろうって」


柊は空を見上げた。


「彼女はもう前を向いて生きてる。なのに俺だけが、過去に縛られて復讐のことばかり考えてた。虚しかった」


「今日、あなたと一緒にここに来て、改めて思いました。復讐なんて、本当に虚しいだけだって」


柊は美咲の手を取った。左手。指輪をはめた手。


「この指輪、実は本物なんです」


美咲の息が止まった。


「一年前、元婚約者に渡すために買ったものです。式の二週間前に逃げられたから、渡すことができなかった。ずっと引き出しの奥にしまい込んでた」


美咲は指輪を見つめた。プラチナの輝き。シンプルで上品なデザイン。これが、柊の痛みの象徴だったなんて。


「どうして、それを……」


「今朝、あなたに会う前に、ふと引き出しを開けたんです。そしたらこの指輪が目に入って。不思議と、これをあなたに渡したいって思った」


柊は美咲の目をまっすぐ見た。


「過去の象徴を、新しい何かに変えたかったのかもしれない。それに――」


柊は言葉を切った。そして、小さく笑った。


「正直に言うと、今日一日、あなたと過ごすのが楽しみだったんです。仕事で会ってた時から、あなたのこと気になってた」


美咲の心臓が激しく跳ねた。


「だから、どうせ演技をするなら、本気でやりたかった。中途半端な小道具じゃなく、本物の指輪を渡したかった」


「でも、それじゃああなたが……」


「いいんです」


柊は穏やかに笑った。


「今日一日、あなたと過ごして分かったんです。俺が本当に求めていたのは、復讐なんかじゃなかった」


「じゃあ、何を?」


「こういう時間です」


柊は美咲の手を両手で包んだ。


「誰かを大切にして、誰かに大切にされて。そういう当たり前の温かさ。それを、あなたと一緒にいて思い出した」


美咲の目に涙が滲んだ。


「でも、これは演技で――」


「最初はそうでした。でも、どこからか分からなくなった」


柊は美咲に一歩近づいた。


「あなたの手を握った時。あなたが震えてるのを感じた時。あなたが笑ってくれた時。全部が、演技じゃなくなっていった」


「私も」


美咲は思わず言った。


「私も、分からなくなってた。あなたと話してると、楽しくて。優しくされると、嬉しくて。こんな風に気遣ってもらえるのが、こんなに温かいんだって、思い出した」


美咲の涙が溢れた。


「大河内は、私のこと完璧すぎて疲れるって言ったけど。あなたは、私の我慢に気づいてくれた。完璧じゃなくていいって、言ってくれた」


「当たり前です」


柊は美咲の涙を親指で拭った。


「あなたは、完璧である必要なんてない。ただ、あなたであればいい」


その言葉が、美咲の心を溶かした。ずっと求めていた言葉。ずっと欲しかった優しさ。


「柊さん」


「一真って呼んでください。もう他人じゃないでしょう」


「一真さん」


「さんもいらない」


「一真」


美咲は笑いながら涙を拭いた。


「私も美咲って呼んで」


「美咲」


一真は美咲の顔を両手で包んだ。


「美咲。今日一日、あなたと過ごして分かった。復讐なんてどうでもいい。あの二人がどう思おうと関係ない。ただ、あなたともっと一緒にいたい」


「私も」


美咲は一真の手に自分の手を重ねた。


「私も、あなたともっと一緒にいたい」


二人は抱き合った。テラスの向こうでは披露宴が続いているが、もうどうでもよかった。大河内も香織も、もう関係なかった。


美咲の心は、もう過去を向いていなかった。目の前にいるこの人と、これから築いていく未来を向いていた。


でもその時、美咲の胸に小さな不安が芽生えた。これは本当に本物なのか。それとも、一日だけの特別な時間が作り出した、幻想なのか。


披露宴が終わり、美咲と一真は式場を出た。夕暮れの空がオレンジ色に染まっている。


二人は並んで駅に向かって歩いた。手を繋いだまま。もう演技する必要はないのに、離したくなかった。


でも、沈黙が重い。


さっきまでの親密な雰囲気が、少しずつ現実に引き戻されていく。契約は終わった。もう演技をする必要はない。じゃあ、これからどうするのか。


美咲の胸に、不安が広がっていく。


「報酬、払わないと」


美咲は立ち止まり、バッグから封筒を取り出した。十万円が入った封筒。それを差し出す手が、微かに震えている。


一真は受け取らなかった。


「いりません」


「でも、契約だから」


「契約は終わりました」


一真も立ち止まった。美咲の方を向く。


「それに、あれは本心です。演技じゃない」


「でも……」


美咲は言葉に詰まった。不安が口をつく。


「でも、今日は特別な一日だったから。非日常の中で、感情が高ぶってただけかもしれない。明日になったら、違って見えるかもしれない」


一真は黙って美咲を見つめた。


「私、また同じ過ちを繰り返したくないの」


美咲の声が震えた。


「大河内の時も、最初は幸せだった。でも結局、私は完璧な彼女を演じてただけで。本当の私を見せられなかった。だから、捨てられた」


涙が溢れそうになる。


「あなたは優しいから、今日私が傷ついてるのを見て、助けたいって思っただけかもしれない。それが恋だって、勘違いしてるだけかもしれない」


「美咲」


一真は美咲の肩に手を置いた。


「確かに、今日は特別な一日でした。非日常でした」


美咲の胸が沈んだ。やはり、そうなのか。


「でも」


一真は続けた。


「だからこそ、確かめたいんです。これが本物かどうか」


美咲は顔を上げた。


「明日、会えますか」


「明日?」


「ええ。今度は式場じゃなく、普通のカフェで。演技じゃなく、本当の自分として」


一真は真剣な目で美咲を見た。


「一日だけじゃ分からない。だから、もう一度会って。それでもまだ同じ気持ちなら、また次の日も。そうやって、少しずつ確かめていけばいい」


美咲の目から、涙が溢れた。


「急がなくていいんです。ゆっくりでいい。でも、可能性を捨てたくない」


一真は美咲の手を取った。


「美咲、もう一度会ってくれませんか。今度は契約じゃなく、本当のデートとして」


美咲は頷いた。言葉が出なかった。ただ、頷くことしかできなかった。


「ありがとう」


一真は美咲を抱きしめた。


「焦らないから。完璧じゃなくていいから。ただ、あなたを知りたい」


美咲は一真の胸の中で泣いた。嬉しさと不安と期待が、全部混ざった涙。


翌日、美咲は約束の場所に向かった。駅前のカフェ。待ち合わせ場所として指定された、ごく普通の場所。


緊張で、手のひらに汗が滲んでいた。昨日と同じ。でも、今日は違う。今日は演技じゃない。本当の自分を見せなければいけない。


一真は既に到着していた。昨日のスーツではなく、カジュアルなシャツとジーンズ。その姿を見て、美咲は少しホッとした。営業マンの顔じゃなく、普通の男性として来てくれた。


「おはようございます」


「おはよう」


二人は向かい合って座った。妙にぎこちない。昨日あんなに自然に会話できたのに、今日は何を話せばいいか分からない。


「コーヒー、何にしますか」


「カフェラテで」


「砂糖は?」


「入れない派です」


「俺もです」


そんな他愛のない会話から、少しずつ緊張が解けていった。


コーヒーが運ばれてきて、二人は同時にカップを持ち上げた。そして、同時に笑った。


「昨日より緊張してますね」


一真が言った。


「ええ。演技の方が楽だったかも」


「分かります。素の自分を見せる方が、怖い」


一真は笑った。その笑顔が、昨日と同じで。美咲は安心した。


「あのね」


美咲は思い切って言った。


「私、実は料理あんまり得意じゃないの。大河内の時は、必死で覚えて得意なふりしてたけど」


「へえ」


一真は面白そうに笑った。


「俺も実は、映画とか美術館とか、そんなに興味ないんです。前の婚約者が好きだったから、付き合ってたけど」


「じゃあ、何が好きなんですか」


「野球観戦。ビール飲みながら、球場で騒ぐの」


「え、意外」


美咲は笑った。


「俺も意外。料理得意じゃないって」


「ひどい」


二人は笑い合った。そして、もっと話した。


本当に好きな食べ物。嫌いな食べ物。休日の過ごし方。子供の頃の夢。今の仕事の愚痴。家族のこと。友達のこと。


すべてが新鮮で、すべてが楽しかった。


気づけば三時間が経っていた。


「もうこんな時間」


美咲が時計を見て驚いた。


「楽しかった」


一真が言った。


「うん、楽しかった」


美咲も答えた。そして気づいた。昨日と同じ。いや、昨日以上に楽しかった。


「また、会えますか」


一真が尋ねた。


「会いたい」


美咲は迷わず答えた。


それから、二人は週に三回会うようになった。


最初のデートは映画。一真が選んだアクション映画を、美咲は意外と楽しんだ。


二回目のデートは水族館。美咲が行きたいと言った場所。一真は子供みたいにはしゃいだ。


三回目のデートは、一真の提案で野球観戦。美咲はルールもよく分からなかったけれど、一真が楽しそうなのを見ているのが幸せだった。


でも、順風満帆というわけではなかった。


ある日の夜、美咲の携帯に知らない番号から着信があった。


「もしもし」


「美咲さん、柊の元婚約者の村田です」


美咲は息を呑んだ。


「突然すみません。柊さんの携帯から、あなたの番号を見つけて」


「何の用ですか」


「彼と、やり直したいんです」


美咲の手が震えた。


「私、間違ってました。柊さんを手放したこと、ずっと後悔してて。最近、彼に新しい彼女ができたって聞いて。それがあなたなんですよね」


「……」


「お願いです。彼を返してください。私たち、本当に愛し合ってたんです」


美咲は電話を切った。手が震えて、携帯を落としそうになった。


その夜、眠れなかった。


一真は、まだ元婚約者のことを忘れていないのか。あの指輪も、本当は彼女のものだった。自分は、ただの代わりなのか。


翌日のデートで、美咲は一真に何も言えなかった。でも、表情に出ていたのだろう。


「何かあった?」


一真が尋ねた。


「何も」


「嘘」


一真は美咲の手を取った。


「美咲、我慢する癖、まだ治ってない」


美咲は観念した。


「昨日、村田さんから電話があった」


一真の顔色が変わった。


「何て?」


「やり直したいって」


沈黙が流れた。長い、重い沈黙。


「美咲」


一真はやっと口を開いた。


「俺の答えは、ノーです」


美咲は顔を上げた。


「彼女とはもう終わった。一年前に、完全に終わった」


一真は美咲の両手を取った。


「確かに、しばらくは引きずってた。でもあなたに会って、変わった。過去じゃなく、未来を見られるようになった」


「でも、あの指輪――」


「あの指輪は、確かに彼女のために買った。でも、彼女のものにはならなかった。そして今、あの指輪はあなたのものだ」


一真は真剣な目で美咲を見た。


「物の歴史は変えられない。でも、意味は変えられる。あの指輪は今、俺があなたに出会った証になった」


美咲の目に涙が溢れた。


「信じていいの?」


「信じてください」


一真は美咲を抱きしめた。


「俺が欲しいのは、過去の彼女じゃない。今、目の前にいるあなただ」


美咲は一真の胸の中で泣いた。不安も、恐れも、全部溶けていくような感覚。


その夜、一真は村田に電話をした。美咲の目の前で。


「もう二度と連絡しないでください。俺には大切な人がいます」


電話を切った後、一真は美咲に言った。


「これで終わり。過去は、本当に過去になった」


それから一ヶ月後。


美咲と一真は、あの時と同じホテルのラウンジにいた。初めて「契約」を交わした場所。


「あの時は、まさかこうなるとは思わなかったな」


一真が笑いながら言った。美咲も笑った。


「私も。ただ一日だけの演技のはずだったのに」


「でも、順調ってわけじゃなかったよね」


「うん。色々あった」


二人は笑い合った。不安も、すれ違いも、全部乗り越えてきた。


「美咲」


一真は真剣な表情になった。


「この数ヶ月、あなたと過ごして確信した。これは一時的な感情じゃない。本物だって」


一真は美咲の手を取った。左手。指輪をはめた手。


「この指輪、そろそろ本物の婚約指輪にしませんか」


美咲の心臓が跳ねた。


「それって……」


「プロポーズです」


一真は真剣な目で美咲を見つめた。


「美咲、僕と結婚してください。今度は偽物じゃなく、本物の夫婦として」


美咲の目に、涙が溢れた。でもそれは幸せな涙。


「はい」


美咲は笑顔で答えた。


「よろこんで」


二人は抱き合った。周りの客たちが、気づいて拍手を送ってくれた。


偽物だったはずの指輪が、本物の婚約指輪になった。


偽物だったはずの恋が、本物の愛になった。


スパイトから始まった関係が、人生最高の幸せへと変わった。


美咲は一真の胸の中で思った。


あの日、復讐のために式場に行った自分。見返すことだけを考えていた自分。


でも、本当に得たものは復讐の達成感じゃなかった。


目の前にいる、この温かい人だった。


「愛してる」


一真が囁いた。


「私も」


美咲は答えた。


「愛してる」


それは、二人にとって最も美しい奇跡だった。


偽物から始まった物語が、こんなにも本物の幸せに辿り着くなんて。


でも、考えてみれば当然だったのかもしれない。


二人が本当に求めていたのは、復讐なんかじゃなかった。


ただ、誰かに本当の自分を愛してもらうこと。


そして、誰かを心から愛すること。


その答えを、二人は互いの中に見つけたのだから。


困難も、不安も、すべてを乗り越えて。


スパイトは、愛に変わった。



終わり

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