波紋
瀬戸内学園での生活は、とても規則正しく、そして忙しかった。
小学校から高校までの子供たちが在籍し、生徒一人か二人に対して必ず一人の教師がつく。
小学生は六年間、中学・高校はそれぞれ三年間。通常の学校と同じように卒業資格が与えられる。
だが――子供たちは気づいていなかった。
教えられている授業は、一般の学校より遥かに高度なものだった。
数学の難問も歴史の裏事情も、小学生から自然と叩き込まれる。IQが高い因子保持者だからこそ可能な速度で進むカリキュラム。
さらに午後は武道・水泳・体操といった身体訓練が組み込まれ、気づけば戦闘員としても通用する体を作らされるのだ。
けれど子供たちにとっては、それが「普通」だった。
水月はすぐに友達ができた。
東子。標準語で話す少し大人びた少女。
ある日、授業後に二人で教室の窓辺に座り、取り留めもない話をした。
「水月ちゃん、カレーのルーって甘口派? 辛口派?」
「え? そんなん考えたことないけど……多分甘口かな」
二人で顔を見合わせて笑った。そんな他愛もない会話が、不思議なほど心を軽くしてくれる。
そんなある日。
食堂の窓際で、高校三年の男子生徒が後輩に笑いかけているのを見かけた。
背が高く、落ち着いた雰囲気を持つその少年は、多くの後輩の憧れの的だった。
水月も東子も、もれなくその少年に惹かれた。
ある日。水月はその少年と東子が気さくに言葉を交わし、笑いあっている場面を目撃した。
その光景に水月の胸はざわつき、思わず東子に冷たい態度をとってしまった。
「……なに? 私、何かした?」
東子が首を傾げる。
「別に……」水月は視線を逸らした。
しかし東子はすぐに察したが、あえて水月には弁明しなかった。
そしてそれから数日間、二人は口をきかなかった。
けれど数日後、その男子が二人の存在を大して気にかけていなかったことを知る。
所詮、憧れは憧れ。
水月と東子は夜の寮のベッドで、泣きながら笑い合った。
「ごめん東子、うちアホや」
「わたしの方こそ……心のどこかで水月に負けたって思わせたかった。バカな行動 ごめんなさい」
水月が東子の頬をつねる。
東子も水月の頬をつねる。
「痛い!!」同時に2人がそう言うと、なんだか可笑しくなってきた。
その夜、他愛もない事で2人はケラケラと笑いあった。
一方の蓮。
大河に目をつけられてからというもの、何かと一緒に行動することが多くなった。
「蓮、今夜抜け出そや。地元の小学校、宝の山やで」
「やめとけよ……」と言いながらも、断りきれない。
夜の塀を越え、公立小学校に忍び込む。教室から漫画やボールを盗み出したり、駄菓子屋で万引きをしたり。
大河は平気でタバコを吸い、笑って蓮に勧める。
後日、それがばれて、二人揃って教師に説教されることもしばしば。
「またお前らか!」
警察に補導され、決まって高瀬がやってきてこっぴどく叱られたのも一度や二度ではなかった。
それでも――不思議と蓮は大河と気が合った。
水月のように守ってくれる存在ではない。けれど、大河といると、心の奥にある「黒」も一緒に笑っている気がした。
◆
こうして三年の月日が経った
水月と東子の友情は強まり、蓮と大河の奇妙な悪友関係も形を成していった。
瀬戸内学園での日々は、彼らの心に確かな根を下ろしていくのだった。
瀬戸内学園での日常は、淡々としていながらもどこか軍隊じみていた。
朝は七時に全員が校庭に整列させられ、号令と共に体操をする。続いて武道、ランニング、水泳といった「体育」の時間。
教師たちは一見すると普通の教育者に見えるが、その動きや視線の鋭さはただ者ではない。元自衛官のような立ち居振る舞いをする者、医師の白衣を着ながらも隙のない気配を漂わせる者……。子供たちはそれを疑うこともなく、日常の一部として受け入れていた。
午後は座学。数学の難問、歴史の裏側、倫理や法律。一般の学校で学ぶより遥かに高度な内容が、当然のように課せられる。
けれど子供たちにとっては、与えられた課題をこなすことが日常であり「普通」だった。
放課後。
掃除を終えた水月と東子は、教室の窓辺に並んで腰かけた。
「ねえみっちゃん、卒業したらどうする?」
「え?」
「私はね、大学に行きたい。理学部とかで研究したいなあって思ってるの」
「うちは……まだわからへん。でも、ここ出たら普通の人みたいに暮らしてみたい」
ふたりは顔を見合わせて笑った。何気ない会話が、本当に楽しかった。
◆
そんなある日。
「新しい生徒が来るらしいで」
「え?男?女?」
食堂で夕食をとっていた時、そんな噂が流れた。
「またややこしいのが増えるんか?」
「どんな悲惨な境遇なんやろ」
「いや、今度のはヤバいらしいで。入る前に大人を病院送りにしたとか」
(ええ……)水月が眉をひそめ東子を見た。
東子も目を丸くした。
「本当なの?」
大河は口元を歪めてニヤリと笑った。
「おもろそうやん。オレが一発シメたる」
「やめとけ……」蓮は渋い顔をしたが、胸の奥に嫌なざわつきを覚えていた。
数日後。
玄関ホールに全校生徒が集められた。ざわめきの中で、職員に連れられて一人の少年が現れる。
髪は伸び放題、制服はきちんと着ておらず、裸足に近いスニーカーをずるずると引きずっている。
年齢は蓮より少し上に見えるが、眼つきは飢えた狼そのものだった。
周囲を睨みつける視線。まるで敵かどうかを品定めするかのように、一人ひとりを射抜いていく。
誰かが小声で呟いた。
「あいつ……零士、や」
今は真夏。外ではセミがやかましく声を競っている。
しかしここのホールの空気は凍りついていた。
彼がただそこに立っているだけで、何かを引き裂くような圧があった。
水月は思わず息を呑み、蓮は背筋を強張らせ、「黒」は右手に引っ込んだ。
「おい……今 俺の名前呼んだのは誰だ……?」
飢えた狼の低い声。声の主と思わしきあたりに刃の様な視線を送った。