月明り
夏の終わり、「久遠」とマジックで書かれた小さな表札がある団地の一室。
台所に並んだ鍋はひとつだけ。中身はキャベツの味噌汁と、安売りの豆腐が小さく浮いている。
「いただきます」
小学六年の久遠水月は、箸を握りしめて弟の顔を見た。まだ小学二年の蓮は、背の高い椅子にちょこんと腰かけ、味噌汁をすするたびにほっとした顔をする。
母は痩せていた。咳が止まらず、立っているだけでも苦しそうなのに、無理に笑顔を作る。
「二人とも、よう食べるなぁ。母さん嬉しいわ」
その言葉に水月はうなずいたが、胸の奥で重い不安を押し殺していた。母は工場の仕事から帰ると布団に伏せる時間が長くなり、台所に立つことさえ難しくなってきている。
――それでも「母は自分たちを守ってくれる」という幻想だけは、壊したくなかった。
だが、その幻想はいつまでも続かなかった。
◆
葬儀の日。
雨の降る町の寺で、二人は親戚たちに囲まれていた。
「かわいそうに…」
「どうする?この子ら…」
「でもウチも生活厳しいしな…」
同じ顔をした大人たちが、困ったように視線を逸らす。
親戚は誰も二人を抱きしめようとはしなかった。
水月は唇を噛み、蓮の手を強く握る。弟の手は小さく震えていた。
(誰も頼れへん……私が守るしかないんや)
「今月だけやったら……」
隣の部屋でヒソヒソと電話で会話する声が聞こえる。
「うちの家かて家族食べさせるだけで精一杯なんや……今度は姉さんの番ちゃうん?」
「ね……お願いね。明日連れていくから」
次の日
「ああ よう来たね~ 自分の家やと思ってゆっくりしてな」
水月「ありがとう おばさん」
しかし他の部屋では
「ずうずうしい! 死んだあの子の母親とよう似てるわ」
親戚の家を転々とする日々。もう何度目だろう。
夕食の時間に「お前たちの分はない」と追いやられることもあった。11月の寒い夜、毛布1枚を二人で分け合った。蓮が泣き出すと、水月は黙って背中をさすった。
ある家では「家事を手伝え」と掃除や洗濯を押しつけられた。別の家では「うちの子に悪影響や」と学校に行かせてもらえなかった。
――やがて二人は、親戚からも見放され、町の公園で夜を明かすようになった。
薄暗い街灯の下。
蓮は空き缶を抱えて、震える声で言った。
「……姉ちゃん、おなかすいた」
水月は強く弟を抱きしめた。
冷たいアスファルトの感触。夜風が頬を刺す。
見上げると大きな満月だった。眩しいほどに。
水月は唇を噛み、「大丈夫や」と答えるしかなかった。
その時だった。
「お嬢ちゃん、こんなとこで何してんの?」
スーツ姿の男が声を掛けてきた。
中学生になったばかりの水月は、背も高く、痩せていながらも年齢以上に大人びて見えた。
「一緒に来いよ。飯、食わせたる。それにな……二万やる」
差し出された札束に、空腹で霞む頭は揺らいだ。
(これで、蓮に腹いっぱい食べさせられる……)
半ば無意識に立ち上がり、男の後を歩き出す。
だが、道すがら肩を抱かれ、腰に触れる手。
男の唇が自分の頬にかすかに触れる。
ざらついた指先にぞっとして、直感が告げた。――これは普通のことじゃない。
「やめて!」
振り払って逃げようとするが、男は追いすがり、水月を路地裏へ引きずり込んだ。
暗がりの中で押し倒されかけた瞬間――。
男「ちょっと優しくしてやったらつけあがりやがってよ。乞食のガキのくせしやがって」
「姉ちゃん!!」
蓮の叫び声が響いた。
必死に石を投げ、助けを呼ぶ。
「警察や!」「人さらいや!」と幼い声が町に響き渡る。
道行く人がざわつき始めた。
男は舌打ちし、水月を突き飛ばして走り去った。
膝に力が入らず、アスファルトに座り込む水月。
(……何やってんの、私)
弟の前で崩れ落ちるわけにはいかないのに、全身が震え止まらなかった。
額に生暖かい感触があった。手を当てるとヌルっとした。地面に1滴2滴と血が滴り落ちた。
その直後、水月は蓮の手を引っ張り、繁華街の回転寿司に駆け込んだ。
「好きなだけ食べ。今日はええねん」
涙をこらえた笑顔でそう告げる。
「やったー!!」
蓮は遠慮がちに皿を重ね、やがて夢中になって食べ始めた。
その姿を見ながら、水月は心の奥で叫んでいた。
(私が、守らなきゃ)
しかし、次第に店員がざわつき始めた。
額から血を流し、ボロボロの服を着た子供が親の同伴もなく席についているのだ。
親が戻って来る気配はない。
(そろそろ時間切れか‥‥) 水月はそう思った。
「蓮、いい?」
「何?お姉ちゃん」
蓮は寿司を頬張りながら答えた。
水月は弟の顔に寄せ、囁いた。
「私が合図したら走るよ。」
「え?」
「今よ!!」
二人は丁度店に入って来たカップルの間を走り抜け、交通量の多い国道を信号を無視して渡った。
複数のホーンの音がけたたましく鳴り響いた。
だが、逃避は長くは続かなかった。
程なくして二人は保護される。
警察署の一室、机の向こうに座ったのは、無精ひげを生やした刑事。
高瀬――後に二人の運命を大きく変える存在だった。
「……お前ら、ずいぶんと早く大人の世界に触れちまったな」
厳しい声。けれど、その奥に妙な温かみを感じた。
目の前の男の声を聞き水月の心は少し、落ち着きを取り戻していた。