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第9話 「ひとりの人間として愛している」

「気分はどうだ?」


 目を開けると、心配そうに覗き込む青樹の顔があった。

 清浄に整った身体に、洗濯したてのパジャマが着せられていた。


 家を飛び出した夜、知らない男たちから暴行を受け、傷ついて汚れた身体を引きずるようにして帰り着いた。身体を洗おうとしたが、バスルームの前で力尽きた。

 その後は、おぼろげな記憶しかない。青樹に抱きしめられながら泣いたこと。その時、青樹の肩が震えていたこと。

 義兄(あに)を悲しませてしまった。自分の愚かさの所為で。


「……兄さん」

「あれから、もう二日目の夜だ。おまえ、ずっとうなされてた。まだどこか痛みはあるか?」


 身体に受けた凌辱以上の痛みがあるとすれば、それは己の心だった。

 あれは罰だったのだとタケルは思う。無辜(むこ)な青樹を侮辱した罪による応報。

 だったら、自分はもう許されるのか。それとも、まだこれだけでは償えないのか。ならば、後はどんな罰を受けねばならないのか。

 自分に下る罰としてタケルが最も懼れていることは、唯ひとつ。義兄からの拒絶だった。


「兄さん、ごめんなさい。あんなひどいことを言って」

「何言われたかなんて忘れた。それより、喉渇いてないか? 水は?」


 訊かれて、初めてタケルは渇きを自覚した。


「欲しい」

「飲めるか?」


 青樹がタケルの上体を起こして腕で支え、ミネラルウォーターを注いだコップを口元に近づけた。


「……無理」


 切れた唇と口腔の痛みで物を嚥下することが躊躇(ためら)われた。それと同時に、(おぞ)ましい暴行の記憶が甦り、タケルは思わず青樹にしがみついた。


「嫌なことは全部忘れろ」


 青樹はタケルを抱き留め、ゆっくりと背中を撫でた。


「うん」


 水は青樹が口移しで飲ませてくれた。義兄(あに)の口腔で冷たさが和らいだ水が、タケルの喉を穏やかに潤した。

 初めて、ふたりは唇を触れ合わせた。

 水を移し終えて唇を離そうとする青樹の首にタケルは腕を回し、痛みを忘れて自分の唇を押し当てた。

 青樹は拒まなかった。彼もまたタケルを抱き寄せた。

 息が続く限りの長い口づけは、互いの想いを伝え合うのに言葉よりも雄弁だった。

 義兄は拒絶しなかった。つまり、最も懼れていた罰は下らなかったのだ。ついに、タケルは秘めてきた想いを告白した。


「僕は兄さんを、ひとりの人間として愛している。子どもの頃から、ずっと」


 出逢って以来、タケルにとって青樹こそが全世界になった。いつも青樹を追いかけ、追いついて、その背中に抱きつく。すると、その(たび)に青樹は向き直り、温かい笑みを浮かべて抱きしめてくれるのだった。そのしなやかな腕で、その深い懐に。


「そうか。だったら……タケル、ロケットの写真の女子は何だ?」


 青樹が真顔でそう尋ねた。


「ロケット……?」

 はっとしてタケルは首に手を遣った。だが、そこに指に触れるものはなかった。

「中を見たの?」


「すまん。見た。おまえが風呂に入ってる時にな。悪いとは思ったが、どうしても気になって」


 視線を逸らしぎみにして、青樹は鼻を掻いていた。家族といえどもプライバシーは尊重すべきとする戒めよりは、好奇心には勝てなかったと言いたげだった。


「あれは同じクラスの女の子から貰ったんだ。クリスマスプレゼントとして」

「イニシャル入りのプラチナの特注品が、ただのクリスマスプレゼントのわけがない。ましてや写真まで入っていたとなると、かなりの想いだ。しかも、おまえはそれをいつも身に着けていた。だから……俺はてっきり、おまえも写真の女子を好きなのだとばかり思っていた。それで、兄として、弟の恋愛を静かに見守らなければいけないと自分に何度も強く言い聞かせて、俺は……自分の本当の気持ちを抑えた。いつかは、こんな日が来ると覚悟していたはずだ、と」

「兄さんの本当の気持ち、って?」


 それこそ、タケルが何よりも知りたいことだった。


「俺の気持ちなんて、今はどうでもいい。それより」

 青樹は語気を強めて続けた。

「ロケットをくれた女子の気持ちだ。おまえは、どうするんだ?」


「貴水さんの気持ち……」


 プレゼントを受け取った場面を、タケルは思い返した。


『……すごく、応援してるから』

『すっ、素敵な、恋人ができるように、応援してる』


 はにかみながら言った貴水千鶴の顔が浮かんだ。表情豊かな可愛らしい顔が、そう言えば、いつにも増して紅潮していた。今にして思う。あれは彼女なりの告白だったのかと。そうだとしたら、自分はあまりにも鈍感で無神経だった。



 タケルは、冬休み前に交換したばかりの電話番号に発信した。


 そうして、初恋の終わりを、貴水千鶴が知ることになるのだった。




「母さんが二人目の子を流産した後、子どもを授かることが難しい身体になって、毎日泣いていた。そんな母さんの涙を止めたのが、おまえだった。悲しみに沈んでいた家に光が射したようだった。父さんも母さんも、そして、誰よりも俺がおまえの虜になった。明るくて優しい性質、愛くるしい表情、俺を呼ぶ可愛い声、追いかけて来る足音、後ろから抱きしめる腕。その何もかもが尊くて天使のようで、俺をいつも幸せにしてくれる。それは今でも変わらない。

 ただ、俺の方は、兄でありながら弟のおまえにあるまじき感情を持つようになっていった。おまえが他の誰かを好きになることが寂しくて辛くて、どうしようもなかった。もう、俺の許から去って行くんだと思うと……」


 青樹がタケルに自分の本当の気持ちを語った。


「僕は兄さんから離れないよ。これからも、ずっと」

「ずっと、一緒にいてくれるのか」

「今までもそうだったでしょう。これからも……いや、これからは違う。変わろう、僕たち。兄弟であることをやめて、恋人同士になろう。兄さん」

「いきなり恋人同士かよ。普通、最初は友だち、からじゃないのか? ……って、すまん。だったら、まず俺の呼び方から変えろ」

「じゃあ、『青樹』……でいい?」

「それしかないだろう」

「……青樹。夢みたい。こんな日が来るなんて」

「俺も。……おまえなら、俺の全部(こと)、好きにしていい」

「青樹……」

「あ……だけどな、俺はちょっと臆病なんだ」



 兄弟を越える階梯を踏み出すことに懼れる青樹。(まなこ)閉じ、堪える青樹の目尻から、我知らぬひとすじの涙が、煌めきながら零れて落ちた。

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