第7話 忘れ物
どれだけの時間、意識を失っていただろうか。彰は鈍い痛みが残る頭を巡らして、室内を見渡した。
既に有吉たちの姿はなく、血に染まった絨毯の上に羽をもがれた天使が横たわっているのを、眩暈で歪む視野に捉えた。
『君……!』
縺れる足で少年の傍へ行き、手を伸ばそうとした。
『かまわないで』
掠れた声で、少年は彰を拒絶した。
露わにされた白い肌はいくつもの傷や痣で腫れ、下肢は血に塗れていた。
五人の男たちから彼が受けた凌辱がどれほど執拗で酷いものであったか、想像に難くない。目を覆いたくなる惨状に彰は動転した。
『俺の所為だ……俺が、ここに連れて来たばかりに……ドアを開けたばかりに……すまない……すまない……許してくれ……俺の所為だ……俺が……君をこんな目に……すまない……本当に……』
自責の念だけが、徒に大きくなっていくばかりだった。頭を抱えて譫言のように同じ言葉を繰り返し、彰は自分を責め続けた。出口のない迷路に入り込んでしまったかのように、思考も言葉も堂々巡りを繰り返すのみ。
気がつくと、いつしか少年はいなくなっていた。
白いシャギーラグに血の痕を残して、天使は消えた。
ひとつの忘れ物をして。
* * *
保護するはずが、自分の浅慮の所為で酷い瑕疵を負わせてしまった。悔恨の念が消えない。もう一度、彼に会いたい。そして、心から謝罪したい。その思いに、彰はずっと囚われていた。
「お兄ちゃん? 首の……それ、見せて!」
突然、千鶴が驚いたような声を上げ、彰の首に光るプラチナのチェーンを指した。
「これか?」
彰はチェーンを引っ張り、本体を取り出して、千鶴に見せた。
現われたのは、二つのアルファベットをデフォルメしたロゴが刻まれた直径12mmほどのシンプルな円形のペンダントトップだった。
少年を入浴させる際、それを目に止めた彰が、彼の首から外して洗面台の鏡の前に置いた。
彼が去った後に残されていたその忘れ物を、爾来、彰は肌身離さず身に着けていた。天使と自分を繋ぐ唯ひとつの手掛かりとして。
「ええーっ!?」
千鶴は驚愕の眼差しで兄を凝視し、興奮ぎみに問い質した。
「どうして、それを、お兄ちゃんが持ってるの!?」
「これは……」
千鶴に気圧されて彰は言葉に詰まった。訊かれたところで、今この場で真実を話すことなどできない。この忘れ物にまつわる出来事は、あまりにも凄惨で忌まわしい。
「千鶴、これが、どうかしたのか?」
彰は平静を装い、訊き返した。
千鶴はその問いには答えず、クラークと兄に向って言った。
「試着した分、全部いただきます。後で届けてください。……お兄ちゃん、帰るわよ!」
天使の忘れ物に関する何らかの情報は、意外にも妹が握っていた。
* * *
そのロケットが兄の首に掛けられているのを見た瞬間、千鶴は心拍の波形が振り切れるほどの衝撃を受けた。
決して見間違うはずはない。それは世界に二つとない物だから。ある人のために自分がデザインし、特別に作らせたプラチナのロケット。それを何故、兄が身に着けているのか。千鶴の頭の中で、尋常でない驚きと疑念の嵐が吹き荒れ、抑え難い興奮の波が渦を巻いていた。
それでも、千鶴は冷静になろうと努めた。ひとまず、落ち着くために一刻も早く兄のマンションに帰り、ロケットを入手した経緯を聞き出すことが先決だった。
兄はおそらく、それがロケットであることに気づいていないだろう。もしも気づいていれば、きっと自分に尋ねるはずだから。
何故なら……。
「このペンダントのこと、おまえは何か知っているのか? 教えてくれ。頼む、千鶴……」
「ぐぬぬっ」
帰り着くなり千鶴が切り出すより早く、彰が切羽詰まった様子でそう言った。さらに『お願いだから』と言葉の最後に付け足して強く懇願され、潤んで揺らめく眼差しで見つめられた。
「……いいわ。もうっ、お兄ちゃんにそんな目で見つめられて拒否できる人がいたらマジで尊敬する」
千鶴は彰の要求を吞んだ。聞きたい気持ちと話したい気持ちは同じレベルで最高潮に達していた。しかし、兄がどうしても自分の話を先に聞きたいと願うなら、それに応じることにやぶさかではなかった。
何を置いても、彰の懇願の眼差しには逆らえない。おそらく、無自覚なのだろうが、その眼力にはどんな催眠術師も敵わないだろうと、いつも千鶴は感心する。
「驚かないでよ。それ、ペンダントに見えるけど本当はロケットなの。わりと強めの力でスライドさせて開けるようになってるの。中を見たら、お兄ちゃん腰を抜かすわよ」
そのロケットは繫ぎ目が目立たないように精巧に作られており、彰がペンダントと勘違いしていたのも無理からぬことだった。
スライドさせると、円形は二つになった。ロケットの中に入っていたものを目にして、彰は茫然としていた。
「何故……? おまえの、写真が?」
「お兄ちゃん、びっくりしたでしょう」
興奮を鎮めながら、千鶴は静かに話し始めた。