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最終話 ローレライの子守唄

「なんだか? 何ですか?」

「うふふっ、なんだか、先生が誰かに似ているような気がして」


 水無瀬の和やかな表情に千鶴の心が絆される。理由など聞かなくていい。喜んでくれるだけ十分だと納得した。


「誰か、とは? ……いや、聞かないでおきます。千鶴さん、帰国したら是非アトリエにいらしてください。気に入った作品があれば何点でもお譲りしますよ」


「本当ですか! ありがとうございます。私……そうだ!」

 天啓のような閃きが千鶴に降って来た。

「画廊、やってみようかな。先生の作品をメインにした。もちろん、その方面の勉強もします」


 子どもじみた単なる思いつきに過ぎないのかもしれない。しかし、千鶴の胸が躍り始めたのは事実だった。


「それは素晴らしい。でも、私の絵は……あなたの秘蔵コレクションということにしては?」

「秘蔵! なんて素敵な響き」

「素敵なのは、あなたですよ。その聡明さに加え、お兄さんの分まで、あなたはこれからもっと美しくなられるでしょう」


 水無瀬が千鶴を見つめてそう言った。


「はい。私の中に、兄はずっと生き続けていますから」


 芸術家の言葉だ。審美眼は確かなはず。自分はきっと兄のように美しくなる。千鶴は、未来が明るく開けて行く確信を得た。そして、おぼろげながら新たな目標が見えてきた。


「ありがとう」

「……えっ?」


 折しも、右舷側から大きな歓声が起こり、千鶴は水無瀬のその短い一言が聞き取れなかった。


 やがて、柔らかなテノールに乗って『ローレライの唄』が船のスピーカーから流れてきた。

 ライン河クルーズの見どころの一つであるローレライの岩が、その威容を現わしたのだ。

 河沿いの葡萄畑の中に隠見する数々の古城をも凌駕する人気のその巨岩は、恋人に裏切られ河に身を投げた麗しき乙女が魔女となって船人を眩惑し、船を沈没させたという伝説を現代(いま)に伝える。


「あの岩に」

  

 と、水無瀬が言った。


「魔女ローレライは、いたんですね」

 千鶴は続けた。

「風になびく長いプラチナブロンド、濃いブルーの瞳、純白のドレスを纏い、ローレライは……ああ、そうだったんだ。だから、ララバイ。ローレライが歌っていたのは……心を惹きつけるその歌は、子守唄だったんですね」


「千鶴さん、あなたには視えますか?」

「視えます。美しい母、ローレライがあの岩に佇んでいるのが。彼女は魔女じゃない。聖母です」


 千鶴はそう言い切った。怖れられた象徴としての『魔女』の冠称は彼女に相応(ふさわ)しくない。

 聖母。それこそがローレライの真の姿なのだと千鶴は思った。


「 「 聖母ローレライ 」 」


 ふたりは同時に呟いた。岩の上に同じ幻影を見たのかもしれない。

 その幻のローレライは、遥かを望む眼差しで優しく微笑んでいた。




 * * *




「タケル……」


 タケルの汗ばんだ額に貼り付いた髪を、青樹はそっと指先で払った。


「ねえ、青樹、もう一度あの唄を歌って」

「そしたら、おまえは眠ってくれるのか?」


 声に出して歌うことは最初で最後だったはずの夢の中の子守唄。その唄でタケルは昏睡から目覚め、今は満ち足りた安寧の眠りに就こうとしていた。


「青樹の歌が聴きたい」

「じゃあ、歌ってやる。おまえのための子守唄だ」


 青樹はタケルの頭の下に腕を入れ、熱い身体を抱き寄せた。

 そして、肌をまさぐろうとする悪戯な手を掴み取り、おとなしくさせた。


「いい子にしろ」

「……うん」


 青樹の歌に聴き入りながら、タケルが目を閉じた。

 深い澄み切った声、切ない息継ぎ、哀調のメロディー、それら全ては彼のためのものだった。



 穏やかな眠りの中で、タケルの唇が小さく動いて、愛しい人の名前を呼んだ。



「青樹」




  了

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