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第26話 ロマンティッシェ・ライン

 貴水千鶴はドイツを旅していた。



 最愛の兄を失った悲しみも喪失感も未だ癒えていない。傷心を抱えたままの旅行である。

 高校は春休みに入り、新学期まで二週間の猶予があった。

 父の容態が安定したこともあり、慌ただしかった毎日にもゆとりが見い出せるようになって、ようやく自分を顧みる機会を得た。


 真宮タケルが意識を取り戻し、無事に退院した。記憶障害が少し残っていると聞いていたが、クラスメイトである自分のことは憶えていてくれた。それが嬉しかった。


『新たな目標を見つければよろしいでしょう』

 教育係・謝名堂渚の言葉を受けて思い立った今回の旅だった。

しかし、新しいも何も、元々目標など持たずに今まで生きてきたのだ。この旅でそれを見つけられるかどうか、自信も確信もない。ただ、何かを期待する気持ちはあった。それが、ドイツを選んだ理由に繋がっていた。きっかけとなったのは、水無瀬崇の個展だった。その内の一枚の絵『ララバイ』にある。



 ライン河下りの船上で、千鶴は意外な人物と予期せぬ再会を果たした。


「千鶴さん、あなたがこちらに来ていたとは」


 異国の地にありながら、母国語で呼び止められた。


「水無瀬先生!」


 千鶴に声をかけてきたのは、画家の水無瀬崇だった。

 すらりとした長身をシックな装いで包み、端正な顔に穏やかな笑みを浮かべていた。

 瞬間、千鶴の胸がときめきに似た拍動に震えた。彼女の中にある遺伝的記憶が、否応ない慕情を呼び覚ますかのように。

 千鶴は知らない。異国の地で再会したこの画家が、かつて母が不義の愛を交わした男性(ひと)であり、兄・彰の実の父であり、そして、今もなお愛してやまない真宮タケルの父親であることを。ましてや、彰とタケルが異母兄弟であることなど知る由もない。これからも、その事実を知ることは、おそらくない。


「奇遇ですね。学校は春休みですか。まさか、お一人で?」

「ボディーガード兼家庭教師みたいな人と一緒です。さっきまで一緒にいたんですが」


 千鶴は謝名堂渚の姿を探して辺りを見回す仕草をした。自分からは彼の位置は確認できなかったが、たぶん離れて見守っているはずだと察した。鋭敏に場の空気を読み取り、立場を(わきま)える男だ。水無瀬崇との邂逅に自分が立ち会う必要はないと感じたのだろう。


「そうでしたか。後ほどご挨拶させていただきましょう。ところで、千鶴さんは何故ドイツ(ここ)へ?」

「ずっと来たいと思っていて……実際、来てみると、とても懐かしい感じがするんです。初めて訪れる地なのに。それに、先生の描かれた『ララバイ』が、このライン河を連想させるんです。懐かしいと感じるのは、その影響かもしれません」

「あの絵を観て、ここを連想するなんて、あなたの慧眼には畏れ入る。確かに、私はこのライン河をイメージして描きました」

「やっぱり、そうだったんですね!」

「私の個展に、あれから毎日来ていただいたと聞いています」

「魅せられました。魂の根底から。とても強烈なインパクトでした。モデルの青樹さんの美しさもさることながら、『ララバイ』の美女の果てしない想いが、時空を越えて私の中のある人への想いと同調したんです」


 千鶴の中にある真宮タケルへの想いは、今も色褪せていない。『ララバイ』の絵のように鮮やかに胸の奥で輝き続けている。その想いは、恋というよりは、愛。肉親に近い愛情だ。兄・彰への想いにも似た。


「ほう、それはまた……」

「あの二つの作品は、お売りにならないんですね」

「はい。でも、いつでも観に来てください。アトリエにありますから」

「是非、行かせていただきます。……先生の方こそ、何故ドイツを旅しようと思われたんですか?」

「創作のイマジネーションの舞台となったライン河を見るためです。巡礼……そんな動機でしょうか」


「巡礼! その感覚、わかります」

 千鶴はあのロケットをずっと身に着けている。今は、兄・彰の写真を入れて。巡礼、そして、鎮魂。この旅の目的を敢えて表わすとしたら、それらの言葉が当てはまるような気がした。

「それに、ここに来れば何か触発されるものがあるかもしれないと期待したんです。例えば、出逢い、とか」


「見事に出逢いましたね、私たち」

「運命の出逢いと言っていいんですか? 先生」


「運命。そうですね。はははっ……」

 水無瀬はひとしきり笑って言葉を続けた。

「千鶴さん、あなたは亡くなったお兄さんの彰さんに、よく似ておられる」


「兄の顔を知っているのですか?」

「……経済誌に写真が載っていました。お父上とのツーショットで。美しい(かた)でした。見出しにも『美貌のプリンス』とあった」

「プリンス……ええ! 確かに兄はそうでした。綺麗で繊細で、自慢の兄でした。でも、似ているなんて言われたのは初めてです。正直言って、とても嬉しいです」


 幼少の頃より、誰もが彰の美しさを()でた。その影で妹の千鶴は不遇だった。逆だったら、とさえ囁かれていた。そんな千鶴にとって、兄・彰に似ているという言葉はこの上ない褒め言葉だった。


「彰さんは、どんな人でしたか?」


 水無瀬にそう訊かれ、千鶴は首からロケットを外して中の写真を見せた。


「兄です」

「彰……! さん」


 ロケットを手に取り、水無瀬は食い入るように写真を凝視した。


「兄は、おとなしくて優しい性格でした。周囲のみんなからも愛され、大事にされていました。特に、父は兄を溺愛していました。高校生になっても一緒に寝ていたくらいなんですよ。父にはすごく甘えん坊だったんです。父もそれが嬉しいみたいで。私はちょっぴり羨ましかったですけどね」

「お父上から愛されていたんですね。それじゃあ、彰さんは幸せだったんですね」


 そう言いながらロケットを返す水無瀬の表情が、心なしかほっとしているように千鶴には見えた。


「ええ、それはもちろん」


 逢ったこともないはずの兄に水無瀬が何故それほどまでに関心を持つのか、千鶴は少し不思議に感じながらも話を続けた。兄について語るのは嫌ではなかった。むしろ、もっと誰かに聞いて欲しいとさえ思っていた。儚くも美しいひとりのプリンスのことを。

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