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第20話 海へ

 送りがてら海岸線をドライブしようと彰が言った。

 遠回りになることは承知の上だった。ふたりの間に漂う別れを惜しむ気配が、彰にそう言わせ、タケルに同意させたのかもしれない。


 朝靄の中を、彰の愛車アルファロメオ・スパイダーは緩やかな海岸線を滑るように疾駆していた。その道を暫く進むと、千鶴の別荘が見えてくるはずである。


「君を送り届けたら親父の顔を見に行くよ。この時間なら、まだ家にいるだろうから」

「それはいいですね」


 相槌を打ちながら、タケルは彰を見た。晴れやかとは言い難い、寂しげな横顔がそこにあった。大丈夫なのだろうか、この人は。目を離したら消えてしまうのではないか。どうしても、そんな思いが湧き起こる。


「昨日は一方的に俺ばかり喋って、君のことを聞きそびれた。今更だが、よかったら恋人のことを教えてくれないか」

「……恋人は、義兄です」

「義兄……お兄さん?」


「はい」

 訊かれれば正直に話すことは厭わなかった。タケルは自分が養子であることや、その養父母の息子・青樹への愛を明かした。

「あの日、僕は嫉妬心から義兄に暴言を吐いて、言い合いになり……それで、自分の気持ちを抑えられなくなって逃げ出したんです。そうしないと、僕は力ずくで、義兄を……どうにかしてしまいそうだったから。そして、あなたと出逢った」


「それが、あの時だったのか」


「僕は……あのまま、あの男たちが来なければ、あなたを義兄の身代わりにしていたかもしれない」

 あの時、抱き寄せて温めてくれる優しい人に、自分の遣る瀬無い感情が、捌け口を求めて向かっていたかもしれないのだ。

「だから、僕はあなたが言うような天使なんかじゃないんです」


「うふふっ、それはそれで、ウエルカムだったかもな」


 彰は小さく笑った。


 その時果たせなかったことは、後日、現実のものとなった。しかし、何故かタケルは、青樹への背信とは別の後悔の念を抱いていた。冒してはならない禁忌を破ってしまったかのような。


「もっとたくさん話してくれないかな。君の恋人のことを」

「義兄は僕より二つ上の十九歳です。彰さんも、そのくらいでしょう?」

「ああ。同い年だな」

「いつも楽観的で笑っていて、少し粗野なところもあるのに、ちょっと臆病で……でも、本人は自分はデリケートなんだって言ってますけど。それから、この冬休みの間も複数のアルバイトを掛け持ちしていて結構忙しいみたいなんですが、僕が育ち盛りだからって食事の心配をしてくれて、食べきれないくらいの量を作ったりするんです。おかげで僕は、本当に……」

「君は本当に、幸せなんだね」


 彰は笑みを浮かべて、タケルの言葉を引き取った。


「……はい」


 遠慮がちにタケルは頷いた。


「素敵な人のようだね。彼が羨ましいよ。俺が……君のお義兄さんだったら……と思うよ。何故自分は貴水彰として生まれて来たんだろうかって、つくづく残念に思う。別に俺は貴水彰じゃなくてもよかったんじゃないか、ってね。俺は他の誰かでもよかったはずだ。理想を言うなら、君のお義兄さんとして生まれたかったよ。君にそんなに愛してもらえるなら」

「僕は、彼が義兄だから愛したわけじゃないです。彼は彼だったから」


 たとえ、どのような形で青樹と出逢ったとしても、やはり彼を愛したとタケルは思う。青樹を愛することに何の理屈もない。ただ彼とめぐり逢い、愛し合うために自分は生まれてきたと信じている。


「そうか。……つまり、俺が誰であろうが、俺が俺である限り、ダメってことか」

「いいえ。貴水さん、あなたはあなたのままであるべきです。僕はあなたを……貴水さん、僕と義兄の所に来ませんか? 一緒に、生きていきませんか?」

 

 それは必ずしも深い思慮に基づく言葉ではなかった。タケルは、青樹は勿論、自分はこの彰とも共に生きるべきだと漠然と感じたまでだった。


「唐突な……どういう関係性で俺が君たちと? 今、冗談を受け流せる心境じゃないんだ。勘弁してくれないかな」

「僕にとって、あなたも大事な人になってしまった」


 タケルは、彰とはこのまま別れてはならない気がした。


「同情なら、もういらない」

 彰は前を向いたまま、思いつめた表情で答えた。

「親父に距離を置かれてからというもの、俺は少しずつ壊れていって……そんな時、天使に出逢って、救われるかもしれないと期待した。だが、慈悲で泡沫の慰めを与えられ……ベッドでの君の情熱と優しさを、勘違いしそうになったよ」


 いつしか、彰の目に涙が溢れていた。


「貴水さん、同情じゃありません」

「いいんだ、もう。本当は、俺は自分だけを愛して欲しいんだ。でなきゃ安心できない。欲張りなんだ。どうしようもないほど飢えている。いつも。そして、そんな自分が息苦しい。いっそのこと無になりたい。自分が自分であることをやめたい。無になって、魂ごと消えてなくなりたい。この意識も、何もかも。……ごめんね、真宮くん」

「えっ?」


 眼前に海が広がってゆく。


 彰はアクセルを踏み込んだ。


 海へ。


「貴水さん! 貴水さんっ‼!」


 彰の意図を察して、タケルはとっさにサイドブレーキ・レバーを引き上げた。

 しかし、間に合わなかった。


 死のダイビングは敢行された。




 * * *




 青樹が長椅子から跳ね起きると同時に、水無瀬が絵筆を落とした。

 この日、青樹は朝早くから水無瀬のアトリエに来ていた。


「急に、胸が……胸騒ぎのようなものがして」


 青樹は胸を押さえた。拍動が不安を訴えるように速まっていた。


「私も」


 と水無瀬は言い、絵筆を拾って割れた筆先を見つめていた。


「先生も?」


 青樹と水無瀬は、茫然と顔を見合わせた。


「何処かで、何か、大切なものが壊れたような、そんな感じがした。虫の知らせ? これが、そうなのかな……真宮くん」

「大切なもの……」

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