第19話 夜明け
水無瀬崇には、『エクスタシーの燃えさし』と並行して描いているもうひとつの作品がある。
その作成を、モデルの青樹が訪れる前に進めておこうと、その日も夜明け前から絵筆を執っていた。
彼がカンバスに描いているのは、ひとりの美しい女だった。長いプラチナブロンドを風になびかせ、濡れて煌めく印象的な濃いブルーの瞳で久遠を見晴るかす。そして、妙なる声で子守唄口ずさむ。哀調の曲さえも、その絵から聞こえて来そうだった。
完成に近い絵は、ついに女の正体、つまり真宮青樹の霊界たる過去世を明らかにした。
この作品のタイトルは、『ララバイ』
「うっ……!」
不意に、筆先がぼやけた。水無瀬は筆を置き、涙で滲む目頭を押さえた。
「やはり、そうか」
女の姿は、十五年前に他界した妻、ローレライに酷似していた。
水無瀬の筆が著わした青樹の過去世は、妻と同じ姿をした伝説の女だったのだ。
青樹との邂逅は偶然ではなく、引き寄せられたものであったと水無瀬は確信した。見えない運命の糸に手繰り寄せられるように。
「私の……ローレライ!」
* * *
貴水千鶴を乗せた車が、彰のマンションの駐車場に停まった。
いつものように千鶴はインターフォンを鳴らさず、合鍵で部屋に入った。
鍵を本人以外で所有しているのは父と妹だけである。但し、父が持つ鍵は未だ使われたことはなかった。
その日、千鶴は兄と一緒に朝食を摂ろうとして訪れた。いろいろと、話したいこともあった。
「お兄ちゃん?」
抱え持って来た食材をテーブルに置くと、千鶴は寝室へ向かった。
「お兄ちゃん、まだ寝てるの? お兄ちゃん……」
扉を開けると、そこに、兄はいなかった。
部屋は清澄な空気に満ちていた。すぐに、その理由がわかった。窓が少し開いて、そこから冷たい外気が流れ込んでいたのだった。
ベッドは綺麗にメイキングされていた。千鶴は察した。これは兄の手によるものではないと。だとしたら、誰が? 新しい恋人? だが、それは考え難い。何より兄は、そういうものに倦んでいた。
「あ……っ、この感じ! この気……知ってる。なんだか、とっても好き」
千鶴の鋭い感性は、澄んだ空気の中に微かに混じる愛しい存在の残滓をキャッチした。
「真宮くんだ! きっと」
ベッドサイドに、あのロケットが置かれていた。あれから兄がいつも身に着けていた天使の忘れ物だ。
「これを外したということは……お兄ちゃん、天使に会えたのね」
その時、窓から一陣の風が吹き込んで来て、千鶴の髪を乱した。




