第１話 青樹とタケル
夕暮れから降り始めていた雨は、いつしか雪に変わっていた。
着の身着のままで家を出た真宮タケルの髪や肩に、雪は容赦なく降り積もった。
『恥知らずだ！』
大事な人を心ならずも罵倒した言葉が、ブ―メランのように自分の胸に突き刺さっていた。
敬愛していた義兄・青樹が理由はどうあれ、人前で身体を晒していたことが許せなかった。清廉であることを望むゆえではない。ただの嫉妬からだった。
やるせない想いを抱えたまま同じ屋根の下にいることに耐えられなくなり、タケルは家を飛び出した。ひとえに、己の暴走が怖かった。青樹への想いを抑える理性の糸は、切れる寸前だったのだ。
『俺のすることに、とやかく文句を言うな！』
いつにない激しい口調で青樹は怒った。
『引き受ける前に、どうして僕に言ってくれなかったんだ？』
『言ったらおまえは賛成したか？ 第一、いちいち弟に御伺いを立てなきゃならないことかよ。たかがバイトだろ』
『僕に反対されるとわかっていたから黙ってたんだね。知らない人間に裸を見せてお金をもらうなんて……恥知らずだ！』
タケルも声を荒らげて言い返し、じっと青樹を見据えた。その眼は唯ひとつのことを訴えていた。その身体を自分以外の他人に見せないでと。
『もういい。勝手にしろ！』
そう言い放つと、青樹はベッドにもぐり込み、頭から布団を被った。
初めての兄弟げんかだった。
かつて施設にいたタケルは、三歳の頃に真宮家に迎えられた。そこは優しさと温もりに満ちた安寧の場所だった。
二歳違いの青樹ともすぐに仲良くなれた。闊達で温和な性質の青樹は理想的な兄だった。好きにならない理由がなかった。幼いながらも、タケルは愛を知った。
いつも青樹とふたり、肩を寄せ合い、慈しみ合って育った。タケルにとって青樹は初めて独占を許された自分だけの兄であり、彼こそが全世界だった。
その青樹が進学のために親許を離れることになった。
青樹のいない日常の耐え難い寂しさに、タケルは生きる意味さえ失いかけた。それはまさに、世界が消失したも同然だった。
そのあまりに悄然とした様子を見かね、心配した両親はタケルを青樹の許へ赴かせた。
タケルは高校二年の途中で編入試験を受け、青樹が住む町の高校に転校することが叶った。
そして、再び一緒に暮らせるようになった。今度はふたりきりで。
そんな生活がスタートして数か月が過ぎた。
ある日、青樹はモデルとして画家にスカウトされた。ヌードということもあって固辞していたのだが、あまりに熱心に請われ、画家の情熱に押し切られる形でとうとう受諾した。
それをタケルが知った。
「出て行ったのか。しょうがないやつ」
青樹にしてみれば、タケルに非難されることは全く以って心外だった。自分には何らやましいところはない。それにも拘わらず、何故あれほどまでに怒っているのか理解に苦しんだ。極めつけは『恥知らず』という侮蔑的な言葉。そうまで言われて、甘い顔を見せて宥める気にはなれなかった。
雪の夜、上着も無しで出て行ったタケルを追いかける心の余裕など、特にその日の青樹にはなかった。いつもは寛容であるはずの彼が、その日は違っていた。
そもそも青樹は苛立っていた。理由は、タケルの首に光るプラチナのロケットにあった。
＊ ＊ ＊
タケルは駆け足で道路を横切ろうとしていた。
猛スピードで近づいて来る車のヘッドライトが彼の目を眩ました。
急ブレーキの音が、夜の闇を切り裂いた。
