第9話 『夏樹のライブ』
### 第9話「夏樹のライブ」
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健一はいつものように工務店の作業場で働いていた。父の仕事を手伝いながらも、どこか心の奥に空いた穴を埋めきれずにいた。音楽活動を再開し、仲間たちと新しい曲を作り始めたものの、工務店の仕事との両立は相変わらず難しい。
「健一、電話だぞ!」
作業中の健一に父が声をかけた。手を拭きながら受話器を取ると、懐かしい声が聞こえてきた。
「久しぶりだな、健一!」
その声の主は夏樹だった。彼は健一の幼なじみで、今ではプロのミュージシャンとして活躍している。
「夏樹!?どうして急に?」
「たまたまお前のことを思い出してさ。それで聞いたんだけど、今も音楽やってるんだろ?」
夏樹の軽快な声に健一は少し戸惑いながら答えた。
「まあ、一応ね。でも仕事もあって、そんなに本腰入れてやれてるわけじゃないよ」
「そっか。まあ、それでもいいんだけどさ、ちょっとライブに来てほしいんだよ」
突然の誘いに健一は驚いた。夏樹のライブに招待されるなんて予想もしていなかった。
「俺のライブ、来てくれるか?昔からお前には聴いてほしいって思ってたんだ」
その言葉に、健一は少し胸が熱くなるのを感じた。
「でも、俺なんかが行っていいのか?今さらだけど…」
「いいとか悪いとかじゃない。お前が来てくれるだけで嬉しいんだよ。俺たち、音楽の話をたくさんしてたよな?あの頃を思い出してさ」
健一は一瞬迷ったが、夏樹の熱意に心を動かされた。
「分かった、行くよ。いつのライブだ?」
「週末だ!チケットは俺が用意しておくから、絶対来いよ!」
電話を切った後、健一は少しの間受話器を握りしめて立ち尽くしていた。工務店での忙しい日々の中で、音楽への情熱を再確認する機会が訪れるなんて思ってもみなかった。
その日の夜、健一はギターを手に取り、何かを確かめるようにゆっくりと弾き始めた。夏樹の誘いが彼の中で何かを動かそうとしているのを感じていた。
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ライブ当日。健一は指定された会場に向かった。初めて訪れるライブハウスは、都会の喧騒の中に佇む洗練された空間だった。外には観客が列をなし、夏樹の名を掲げたポスターがライトに照らされている。
「こんな大きな会場でライブをやるなんて、本当にプロになったんだな……」
健一はそのポスターを見上げながら、遠い存在になった幼なじみの姿を想像していた。
会場に足を踏み入れると、独特の熱気が彼を包み込んだ。観客たちは席に着きながらも高揚感を隠せず、ステージの幕が開くのを今か今かと待ち構えている。健一も指定された席に座り、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
やがて、会場が暗転し、スポットライトがステージを照らした。そこには、ギターを手にした夏樹の姿があった。背筋を伸ばし、自信に満ちた表情で観客を見渡す彼は、少年時代に見た姿とは全く異なっていた。
「皆さん、今日は来てくれてありがとう!」
夏樹の力強い声に観客が沸き立つ。そして、彼の手がギターの弦を弾いた瞬間、音楽が空間を一変させた。
健一はその演奏に圧倒された。夏樹の音楽は、ただの音ではなかった。それは観客一人ひとりの心を揺さぶり、どこか遠い場所へと連れて行くような力を持っていた。
「すごい……こんなの、俺には到底真似できない」
健一は心の中でそう呟いた。夏樹のステージは完璧だった。観客は彼の演奏に魅了され、誰一人としてその場から目を離すことはなかった。
夏樹は続けてMCで自身の音楽への思いを語った。
「音楽は、僕にとって自分自身を表現する方法であり、夢を追い続けるための手段です。でもそれ以上に、皆さんと繋がるための架け橋だと思っています」
その言葉に、健一は胸を打たれた。夏樹が語る音楽の力は、健一がずっと感じていたものと同じだった。
ライブが進むにつれ、健一は心の奥底に眠っていた感情が揺り起こされるのを感じていた。夏樹の姿を見ていると、自分もかつて夢見ていた音楽家としての未来を思い出さずにはいられなかった。
ライブが終わる頃、観客は総立ちで夏樹を称え、拍手が鳴りやまなかった。健一もその場に立ち尽くし、夏樹の姿を見つめていた。
「これが、プロの音楽家か……」
彼の心には憧れとともに、自分が歩むべき道への迷いが再び渦巻いていた。しかし、その迷いの奥には、確かな熱が灯り始めていた。
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ライブ終了後、健一は観客が帰り始める中、楽屋に案内されていた。スタッフに促されて扉を開けると、そこには汗を拭きながら笑顔を見せる夏樹の姿があった。
「健一!来てくれてありがとう!」
夏樹はギターケースを片付けながら振り返り、親しげに手を振った。その姿はステージ上の堂々たるプロとは違い、昔と変わらない気さくな幼なじみのものだった。
「すごかったよ、夏樹。本当に感動した」
健一は素直にそう言ったが、その言葉に自分の不甲斐なさを感じていた。
「ありがとう。お前がそう言ってくれるのが一番嬉しいよ」
夏樹は椅子に腰を下ろし、ペットボトルの水を飲んだ後、少し真剣な表情を浮かべた。
「健一、どうだ?今、音楽は」
その問いに、健一は答えに詰まった。工務店の仕事と仲間たちとの音楽活動の間で揺れる自分の心情を、どう説明すればいいのか分からなかった。
「正直言って、うまくいってるとは言えない。仕事との両立も難しいし、仲間たちとも意見が合わないことが増えてる。それに……」
言葉を詰まらせる健一を見て、夏樹は優しくうなずいた。
「分かるよ。俺もそういう時期があった」
夏樹はギターを手に取り、弦を軽く弾きながら語り始めた。
「プロになるって決めた時、家族には反対されたし、バンドのメンバーともぶつかった。それでも、俺が信じてたのは、自分が本当にやりたいことを諦めたくないって気持ちだった」
その言葉に、健一はハッとした。
「でも、それだけじゃ乗り越えられない壁もあった。そういう時は、自分が何のために音楽をやってるのかをもう一度考えたよ。健一、お前は何のために音楽をやってるんだ?」
その問いに、健一は即答できなかった。自分が音楽を始めた頃の情熱はどこに行ったのだろう。仲間と笑い合いながら作った曲、初めてライブをした時の高揚感。それらの記憶が次々に蘇る。
「多分……誰かの心に触れる音楽を作りたいからだと思う」
健一はようやくそう答えた。それは、夏樹のライブを見て再確認した自分の本心だった。
「それなら、その気持ちを大事にしろよ。それがあれば、どんなに苦しくても前に進めるはずだ」
夏樹は力強く言い切った。
その後、二人は幼い頃の思い出や、音楽への思いについて語り合った。夏樹は健一にプロの厳しさや楽しさを伝えつつ、迷う時間も自分を成長させると励ました。
楽屋を後にする頃、健一の中には一つの確信が生まれていた。
「俺も、もう一度本気で音楽に向き合ってみよう」
帰り道、夜空を見上げる健一の心には迷いが消え、新たな決意が浮かんでいた。音楽を続けることで誰かの心に触れるという目標。そのために工務店の仕事とどう折り合いをつけるのか、自分の中で答えを出そうと歩みを進めていた。
(第9話「夏樹のライブ」完)