第8話『失われた旋律』
### 第8話「失われた旋律」
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健一の生活は目まぐるしかった。朝は工務店の仕事で現場を駆け回り、夜はバンドの練習と作曲に時間を費やす。父との約束を守りつつ音楽への情熱を追い続ける日々だったが、そのバランスは次第に崩れ始めていた。
工務店の仕事は思った以上に忙しく、現場での作業や顧客との打ち合わせに多くの時間を取られた。父が「少しずつでいい」と言った言葉とは裏腹に、健一は責任感から仕事にのめり込み、気づけば音楽に割く時間が激減していた。
ある日の夜、自室でギターを構えた健一は、ノートに書かれた未完成の曲を見つめていた。しかし、いくら弦を弾いても新しいメロディが浮かばない。
「ダメだ…全然進まない」
深いため息をつきながら、健一はギターをベッドに置いた。頭の中は工務店の次の工事計画と、明日の打ち合わせでいっぱいだった。音楽に集中できないことが自分の弱さだと感じながらも、どうすることもできなかった。
さらに追い打ちをかけるように、バンドの練習にも支障が出始めていた。リハーサルの日程が仕事と重なることが増え、健一は欠席や遅刻を繰り返すようになった。
「健一、最近全然顔出さないけど、大丈夫なのか?」
リーダーの翔太が練習後に電話をかけてきた。
「ごめん。仕事が忙しくてさ…今週末のライブの練習には行くから」
健一はなんとか言い訳を並べたが、翔太の声には苛立ちが滲んでいた。
「そういうの、みんなにも迷惑かかるんだよ。音楽に本気で向き合ってるのか?」
その一言が健一の胸に突き刺さる。翔太の言葉には正しさがあり、自分の中途半端な態度を改めて痛感させられた。それでも、すぐに解決できる問題ではないこともわかっていた。
その夜、健一はベッドに横たわりながら天井を見つめた。工務店を手伝うことも、音楽を続けることも、自分にとって大切なことなのに、どちらも中途半端になっている現実に焦りを感じていた。
「これでいいのか…?」
健一の中で、初めて音楽への情熱が薄れていく不安が芽生え始めた。そして、それが彼にとって何より恐ろしいことだった。
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週末のバンド練習。健一は久しぶりにスタジオに足を運んだ。仕事の疲れが残る中、どうにか時間を作り、ギターケースを抱えて現場から駆けつけた。
しかし、スタジオの空気はどこか重く、メンバーたちの視線には苛立ちが漂っていた。
「やっと来たか」
リーダーの翔太が淡々と声をかける。
「ごめん、仕事が長引いて…」
健一は息を切らせながらも謝罪するが、他のメンバーからの反応は薄かった。ドラムの浩二がスティックを手で回しながら口を開いた。
「健一、本気でバンド続けるつもりあるのか?」
その言葉に、スタジオの空気がさらに重くなる。
「何言ってんだよ。俺だってやれるだけやってるつもりだ」
健一は反論するが、浩二は苛立ちを隠せない様子だった。
「つもり、じゃ足りないんだよ!俺たち、音楽で本気で成功したいんだ。それなのに、お前が仕事だなんだって理由でまともに顔出さないから、練習もまともにできない。そんな状態で、どうやって前に進むんだよ?」
健一は言葉を失った。浩二の言葉が正論であることはわかっていた。だが、工務店を放り出すことはできない。
「俺だって…ちゃんとやろうとしてるんだよ!」
思わず声を荒げた健一だったが、自分の言葉が空回りしているのを感じた。
「もういいよ」
ベースの佳奈がため息をつき、冷たい声で言った。
「健一が何を抱えてるのか知らないけど、私たちの足を引っ張るくらいなら、音楽から手を引いてほしい。プロになりたい私たちにとって、中途半端なメンバーは邪魔でしかないの」
その言葉に健一の胸は強く締め付けられた。佳奈の目は真剣そのもので、彼女がどれだけ音楽に賭けているかが伝わってくる。
「…わかった。俺のせいで迷惑をかけたのは謝る。でも、俺だって音楽は諦めたくないんだ」
健一は必死に自分の気持ちを伝えようとするが、メンバーたちの反応は冷たかった。
「そんな甘い考えじゃ無理だよ」
最後に翔太が静かに言い放った。
その練習後、健一は一人でスタジオを出た。夜風が肌寒く、ギターケースを背負いながら歩く健一の足取りは重かった。
「俺は何をしているんだろう…」
仲間たちとの絆が崩れ始めていることに気付きながらも、自分ではどうすることもできない。音楽への情熱と工務店への責任感、その両方を抱えた健一は、自分が選んだ道の困難さに改めて打ちのめされていた。
その夜、健一は部屋でギターを弾こうとするが、指が進まない。メロディは頭の中で途切れ途切れになり、以前のような情熱が湧いてこない。
「このままじゃ、本当に音楽ができなくなる…」
健一はギターを置き、膝を抱えて俯いた。音楽を諦めるべきなのか、それとも工務店の仕事を手放すべきなのか。二つの選択肢の間で揺れる心に、答えはまだ見えなかった。
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孤独感と葛藤を抱えたまま数日が過ぎた。健一は工務店の仕事を続けながらも、心の中の空虚さを埋めることができずにいた。バンドの仲間たちとの関係は冷え切り、音楽への情熱も消えかかっていた。
そんなある日、美咲が工務店を訪ねてきた。
「健一、少し時間ある?」
彼女の真剣な眼差しに、健一は仕事の手を止めるしかなかった。
近くの河原まで二人で歩くと、美咲はバッグから小さなスケッチブックを取り出した。それは、彼女が最近描き始めたイラスト集だった。ページをめくると、そこには音楽をテーマにした絵がいくつも描かれていた。
「これ、健一の音楽をイメージして描いたの」
美咲の言葉に、健一は驚きと同時に胸が熱くなるのを感じた。
「俺の音楽を…?」
健一はスケッチを見つめた。そこには力強いギターの旋律を表すような色彩、そして柔らかなメロディを感じさせる繊細なタッチが描かれていた。
「でも、最近の健一の音楽には少し迷いがある気がするの。前みたいに心から自由に奏でてないように見える。何か、あったんじゃない?」
その一言が、健一の中に溜め込んでいた感情を揺さぶった。
「…俺、工務店の仕事と音楽の両立がうまくいかなくてさ。仲間にも迷惑かけて、今は音楽からも逃げ出しそうになってる。どっちも中途半端で、自分が何をしてるのか分からなくなってるんだ」
そう言って顔を伏せた健一に、美咲は静かに微笑んだ。
「それなら、もう一度思い出してみたら?なんで音楽を始めたのか、なんでその道を選んだのかを」
美咲の言葉に、健一は幼い頃の記憶を思い出した。家族で過ごしたあの日々、父の仕事を見ながらギターを弾いていた自分。そして、母が口ずさんでいた懐かしいメロディ。
「…そうだ、あの曲…」
突然、健一の頭の中にあるメロディが蘇った。それは、子供の頃に家族で歌った曲だった。
その夜、健一は自宅でギターを手に取り、久しぶりに自然と指が動き出すのを感じた。幼い頃の記憶を元にしたメロディに、今の自分の感情を重ねて、新しい曲を作り上げる。
「これだ…これが俺の音楽だ」
翌日、健一はバンドメンバーにその曲を聴かせるため、スタジオへ向かった。戸惑いの表情を浮かべる仲間たちに、健一はギターを弾きながら言った。
「俺、もう一度本気で向き合う。音楽も、工務店も。みんなに迷惑をかけたけど、この曲に俺の全てを込めたんだ。聴いてほしい」
ギターから流れ出る音は、まっすぐで力強く、どこか懐かしさを感じさせる旋律だった。演奏が終わると、しばらくの沈黙の後に翔太が口を開いた。
「…いい曲だな。健一、お前の気持ちが伝わったよ」
浩二も佳奈も笑みを浮かべ、再びチームとしての一体感が戻ってきた。
その日を境に、健一は音楽活動と工務店の仕事の両立に改めて取り組む決意を固めた。自分の音楽には、過去と未来、そして今の自分が込められている。
心の旋律を取り戻した健一は、再び歩き始めた。
(第8話「失われた旋律」完)