第7話『工務店の未来』
### 第7話「工務店の未来」
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秋の空気が少し肌寒くなり始めたある日、健一は音楽活動の合間に工務店を手伝っていた。工務店には毎日のように地域の人たちが訪れ、修理の相談やリフォームの打ち合わせが続く。健一も店に出るたび、父の働く姿や、職人たちが真剣に現場に向かう姿を目にするようになっていた。
その日は父と二人で材料の発注について話していた。父は帳簿をめくりながら、ふと口を開いた。
「この工務店も、もう少しで創業30年だな。思えば、俺がこの町で店を始めたときには、こんなに長く続くなんて考えもしなかったよ」
健一は父の言葉に少し驚きながらも、その視線に漂う深い思いに気づいた。父は長年、この工務店を家族のため、そして地域の人々のために守り続けてきたのだと改めて感じた。
「父さん、ずっとこの工務店を続けてきた理由ってなんだったんだ?」
健一の問いかけに、父は少し遠い目をして答えた。
「俺にとってこの工務店は、家族とこの町の人たちとの絆なんだ。町の家々が少しずつ古くなっていく中で、俺たちが修理して、また家族が安全に住めるようにする。それが仕事の意味だと思っている」
父の言葉は、健一にとって新鮮で深く響いた。音楽の世界と違い、工務店の仕事は一つ一つの作業が形に残る。家族が安心して住むための空間を作り出すことに、父は誇りとやりがいを感じているのだろう。
そのとき、店に年配の男性が訪れ、父に声をかけた。
「いつもありがとうな。おかげでまた、安心して暮らせるよ」
父はにこやかに笑い、手を差し出して男性と固い握手を交わした。そんな姿を見ていた健一は、父がこの町で築き上げた信頼と誇りを強く感じた。
店が落ち着き、父がふとため息をついた。「健一、これからもこの店を続けていくためには、お前の力も必要になるかもしれない。もちろん、無理にとは言わない。でも、店を継ぐってことも、時々頭の片隅に置いてくれるとありがたい」
健一はその言葉に戸惑いを覚えたが、父の目は真剣だった。音楽の道に進みたいという自分の夢と、家業である工務店を守り続けるという責任の間で、再び心が揺れ始めたのだった。
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翌日、健一は父と一緒に工務店の倉庫を整理することになった。倉庫には古い工具や使いかけの資材、そして父がこれまでに使ってきた設計図の束が所狭しと置かれていた。健一は父の仕事の歴史が詰まった空間を見回しながら、ふと幼い頃にここで遊んでいた記憶が蘇った。
「健一、これ覚えてるか?」
父が取り出したのは、古びた木製の定規だった。健一が小学生のころ、父が初めて自分に仕事を教えてくれる時に使っていたものだ。
「懐かしいな。これで初めて父さんに木材の寸法を測るのを教えてもらったよね」
健一は苦笑いしながら受け取った。その定規には使い込まれた跡があり、父が長年この仕事を大切にしてきたことが伝わってくる。
「お前が小さいころは、この仕事が大嫌いだったんだよな。よく倉庫に隠れてたっけ」
父は懐かしそうに笑った。しかしその笑顔の奥に、わずかに影が差しているように見えた。
健一は、その影の理由が気になりながらも言葉を飲み込んだ。父が言葉を続けた。
「正直言うとな、健一。この仕事を続けるのは簡単なことじゃない。特に最近は、若い世代がリフォーム会社に流れて、うちみたいな小さな工務店はだんだん厳しくなってる。時代の流れだとわかってはいるけど、やっぱり寂しいよ」
父の言葉に、健一は胸が詰まる思いだった。
いつも頼りがいのある父が弱音を吐くのは珍しいことだったからだ。
「それでも、この店を閉じるなんて考えられない。お前の母さんと一緒にここまでやってきたし、この町の人たちにも支えてもらった。だから最後まで続けていきたい。だけど、俺一人じゃこの先は難しいかもしれない」
父の視線が健一に向けられる。その目には、ただ頼るだけではない、健一への信頼と期待が込められていた。
「健一、お前にはお前のやりたいことがあるってわかってる。でも、お前がこの店を継ぐことも考えてくれると嬉しいと思ってる。お前の将来のためにも、この工務店の未来を一緒に作れたら、それが一番いいんだがな」
健一は父の言葉に答えられなかった。音楽の夢と、家業を守るという責任。そのどちらも重く、同じくらい大切に思えていた。
その日の夜、健一は自分の部屋でギターを抱えながら父の言葉を何度も思い返していた。父の苦労や期待を理解しながらも、音楽への情熱が消えることはなかった。
「俺には、どちらかを選ぶことなんてできるのか……」
健一は窓の外を見つめながら、決断を迫られる自分の状況に胸を締めつけられるような思いを抱えた。
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翌週の日曜日、健一は父と二人で現場に向かった。小さなリフォーム工事だが、父は丁寧に測量し、顧客の要望に応えるため細かい部分まで確認していた。その姿を見て、健一は父の職人気質と、この仕事への深い愛情を改めて感じた。
現場の帰り道、父がふと車を停めた。車窓から見えるのは、昔家族でよく訪れた公園だった。
「少し散歩でもしようか」
父がそう言い、車から降りる。健一も続いて降り、秋の澄んだ空気を吸い込んだ。
ベンチに腰を下ろした父は、何かを考え込むように空を見上げた後、ぽつりと話し始めた。
「健一、この間の話、ずっと気にしてるんじゃないか?お前が音楽を続けたいって気持ちは、俺も理解してるつもりだ。でもな、工務店を残すためには、やっぱりお前の力が必要なんだよ」
父の言葉には、これまで見せたことのない弱さがあった。それが逆に、父がどれだけこの工務店と家族を大事にしているかを物語っていた。
健一はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「父さん、俺もずっと悩んでる。音楽の夢を捨てたくないし、それでも家族のことを考えると、工務店を放っておくわけにはいかないって。でも、どちらかを選ぶことなんてできないんだ」
父はうなずきながら、静かに答えた。
「選べないなら、無理に選ぶ必要はないさ。お前のやりたいことも、この工務店も、どっちも大事なら、どっちもやればいい。大変だろうけどな」
その言葉に、健一は驚きながらも、心が軽くなるのを感じた。父が夢を否定するどころか、自分が両立する道を考えられるよう促してくれたことに感謝の気持ちが湧いてきた。
その夜、健一は自室でギターを抱えながら、一人考え込んでいた。音楽への情熱を失わず、家業も守るために自分ができることは何か。それを探し出すために、自分自身がもっと努力しなければならないと悟った。
翌日、健一は父に向かって言葉を切り出した。
「父さん、俺なりに考えたんだ。音楽も続けるし、工務店も手伝う。無茶なことかもしれないけど、両方に全力で向き合う方法を探してみたいと思う」
父は驚いた顔をしながらも、すぐに笑顔を浮かべた。
「お前らしいな。それでいい。何があっても応援するからな」
健一は父の力強い握手を受け、その手から伝わる温かさを感じた。自分が選んだ道は険しいかもしれないが、それでも後悔しないと心に決めたのだった。
(第7話「工務店の未来」完)