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第2話『父の背中』

### 第2話「父の背中」


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朝の空気が冷たく澄んでいる中、健一はベッドから起き上がり、窓の外をぼんやりと眺めていた。外には、すでに仕事に向かう父親の姿があった。工務店の前には、積まれた木材や工具が整然と並び、職人たちが作業の準備を進めている。父、健一郎の姿はその中心にあった。


「また、朝早くから仕事か…」


健一は呟くと、ふと机に置かれたギターに目を向けた。いつもなら、朝のこの時間にギターを手にして音を紡ぐことが彼の日課だった。しかし最近は、家業を継ぐという話が出てきてから、ギターを弾く時間が減ってしまっていた。ギターを弾くたびに、音楽の夢と現実との間で揺れ動く自分に気付いてしまうからだ。


階段を下りると、キッチンから母の声が聞こえてきた。


「健一、おはよう。朝ご飯ができてるわよ。」


「おはよう、母さん。」


健一は食卓に座り、用意された朝食を眺めるが、箸を進める気にはならなかった。父親の姿が頭の中に浮かび、彼がどれだけ家業に全力を注いできたかを思い出す。工務店の仕事は決して楽ではない。健一もそれを知っている。しかし、父親のようにその道を選ぶことが本当に自分の人生にとって正しいのか、答えが見つからないまま時間だけが過ぎていく。


「父さん、もう現場に行ったの?」


「ええ、今日は大きな工事の始まりだから、早めに出かけたのよ。あなたも少し見てきたらどう?」


母の提案に健一は小さく頷いた。家業を継ぐ話が持ち上がるたび、彼は父親がどれだけ大きな責任を背負っているかを痛感する。だが、音楽への思いは決して消えない。


---


健一は母の勧めに従い、父親が働く現場へ向かうことにした。靴を履き、コートを羽織って家を出ると、秋の冷たい風が顔に当たる。彼の家から工務店までは歩いて数分の距離だが、その短い道のりでも健一の心は重かった。


工務店の前に着くと、すでに職人たちが動き回り、大型トラックから荷物を運び出している。父、健一郎はその中心に立ち、指示を出しながら自らも作業に取り掛かっていた。背中を丸めながら一つ一つの木材を確認する父の姿は、頼もしいと同時に疲れ切っているようにも見える。


「おう、健一!」


父が健一に気づき、手を振って合図する。健一はぎこちなく手を挙げ、現場に足を踏み入れた。


「どうだ、見に来たか。今日は大きな現場だからな、しっかり準備しないとトラブルが起きる。お前も手伝うか?」


健一は一瞬躊躇したが、頷いた。父の隣に立つと、健一郎は笑顔を見せたが、その顔には深い皺が刻まれていた。これまで見たことのない父の疲れた表情に、健一は思わず胸が詰まる。


「父さん…」


声に出そうとした瞬間、健一郎が口を開いた。


「お前もそろそろ真剣に考える時期だな。家の仕事を継ぐっていうのは、楽じゃない。だが、俺たちの家は代々この仕事で食ってきた。お前も知ってるだろう、俺もその背中を見てきたんだ。」


健一は、父の言葉を聞きながら黙っていた。自分の心の中でくすぶる音楽への情熱と、父親の期待という現実。その二つの間で揺れ動く彼の心は、まさに嵐の中にいるようだった。


「だけど、父さん。俺…」


健一は勇気を出して、今まで胸に秘めていた言葉を口にした。


「俺、音楽をやりたいんだ。ずっと、ギターを弾いて、自分の曲を作って、それを誰かに聴いてもらうことが夢なんだ。家業を継ぐのも大事だってわかってる。でも、それだけじゃ…俺は何か足りない気がするんだ。」


健一郎は一瞬、言葉を失ったかのように息を止めた。彼はゆっくりと息を吐き、そして視線を工務店の奥へと向けた。


「お前の気持ちはわかるよ、健一。俺だって、昔は夢があったんだ。」


健一は驚いて父の顔を見つめた。父が夢を語るなんて、聞いたことがなかった。


「俺は昔、船乗りになりたかったんだ。海を渡って世界中を旅して、見たことのない景色や人々に出会いたかった。でもな…家にはお前のおじいさんがいて、家業を守るために、俺はその夢を諦めたんだ。」


健一郎の目は遠くを見つめ、静かに過去の記憶をたどっていた。


「お前がまだ小さかった頃、俺は毎朝早くからこの工務店で働いていた。それが俺の責任だったからだ。でも、心のどこかでいつも海を見ていた。夢を追いかけることをやめた俺には、家業しか残っていなかったからな。」


健一は父の話を聞き、言葉を失った。父がこんなにも苦しい選択をしてきたことを、彼は知らなかったのだ。


「だから、健一。お前には同じような思いはさせたくない。だが、それでもこの家業を守ることもまた、お前の責任なんだよ。家族を背負うってことは、そういうことなんだ。」


父の声には重みがあり、健一の胸に深く響いた。しかし、それでも健一の中には音楽への情熱がくすぶり続けていた。


「俺…まだ、決められないよ。」


健一の言葉に、父は静かに頷いた。


「そうだな。それでいい。すぐに答えを出す必要はない。ただ、自分の本当の気持ちを大事にしろ。お前がどんな道を選んでも、俺はお前を信じる。」


健一は、父親の言葉に少し救われた気がした。自分の夢を否定されたわけではなく、むしろ尊重されていると感じた。しかし、それと同時に家業を継ぐ責任の重さも再確認させられた。自分がどちらの道を選ぶにしても、父の期待や家族の絆を軽視することはできない。


「自分の本当の気持ちか…」健一はその言葉を反芻しながら、ふと目の前の工務店の光景に目を移した。職人たちが黙々と働き、木材の切断音やハンマーの音が響いている。これが自分の未来の姿なのだろうか? そう思うと、何かが胸の中でざわめくのを感じた。


「健一、少し休憩しようか。」


父はそう言って、現場の片隅に設けられたベンチへ向かった。健一もその後を追い、二人は並んで座った。しばらくの沈黙の後、父は静かに話し始めた。


「お前の年齢の頃、俺も悩んでいたよ。家業を継ぐべきか、それとも自分の夢を追うべきかってな。俺の場合は、父さん、お前のおじいさんが厳しかったから、ほとんど選択の余地なんてなかった。家族のために働くのが当然だと思ってたんだ。でも、今思うと…夢を追ってみる選択肢もあったのかもしれないな。」


健一は驚いた。父がここまで自分の過去を語るのは、初めてのことだった。


「父さん、もしもう一度選べるなら、船乗りになっていた?」


その問いに、父は少し考え込んだ後、穏やかに笑った。


「そうだな…若い頃はそう思っていたかもしれない。でも、今は違う。俺はこの工務店を誇りに思ってるし、この仕事を通じてたくさんの人に助けられてきた。家族も守ることができた。夢を追うのも素晴らしいことだが、守るべきものを守ることもまた、人生の大切な選択肢の一つだと気づいたんだ。」


健一はその言葉を黙って聞いていた。父が選んだ道には、確かに後悔もあったのかもしれないが、それ以上に深い満足と誇りがあることを感じた。自分がこの工務店を引き継ぐことで、同じような道を歩むことができるのだろうか?その思いが健一の中で強くなってきた。


「俺にとっては、夢を追うことも大事だけど、家族や周りの人たちを守ることも同じくらい大事なんだ。でも、健一。お前にはお前の人生がある。俺と同じ道を歩む必要はないし、自分の夢に賭けてみる価値はあると思うぞ。」


父の言葉に、健一は再び胸が熱くなった。自分の夢を諦める必要はないが、父が大切にしてきたものを尊重することもまた、自分の人生において重要なことだと感じたのだ。


「父さん…ありがとう。俺、もう少し考えてみるよ。音楽の道も、家業のことも、どっちが自分にとって本当に大切なのか、ちゃんと決めるまで。」


健一の決意を聞き、父は小さく頷いた。


「それでいい。すぐに結論を出す必要はないんだ。俺はお前が何を選んでも、応援するよ。」


二人はしばらくの間、言葉を交わさず、ただ静かな時間を共有した。父の背中は大きく、そして頼もしい。その背中を見ながら健一は、自分もまた成長しなければならないと感じた。自分自身の選択をし、その結果に責任を持つこと。それが大人になるということなのだろう。


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その後、健一は家に戻り、再びギターを手に取った。指が弦に触れると、自然とメロディが湧き上がってきた。音楽への情熱は、まだ彼の中に強く残っていた。それを確信すると同時に、家業への責任感も消え去ったわけではなかった。


数日が過ぎ、健一は再び父親の工務店を訪れた。父親は変わらず忙しく働いていたが、健一を見ると優しい笑顔を浮かべた。


「どうだ、健一。決めたか?」


健一は少し迷ったが、しっかりと父の目を見て言った。


「まだ完全には決められないけど、もう少し音楽を続けてみたいんだ。もし、それでもやっぱり家業を継ぐことが自分に合っていると思えたら、その時はちゃんと手伝うよ。でも、今は自分の夢を追いたい。」


父はその言葉を聞くと、少しだけ驚いたようだったが、すぐに笑顔に戻った。


「そうか。それでいい。自分の道をしっかり見つけることが大事だ。俺はいつでもここにいる。お前が帰ってきたくなったら、歓迎するよ。」


父の言葉に、健一は安堵した。そして、自分の選択が間違っていないことを確信した。音楽の道を選ぶことが、今の自分にとって最も正しい選択なのだ。


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### エピローグ:父の背中を見つめて


その日、健一は再び父親の背中を見送った。父は工務店で働き続け、自分は音楽を追いかける。お互いに違う道を歩むが、それでも家族としての絆は変わらない。健一はそれを感じながら、ギターケースを背負い、前へ進むことを決意した。


父の背中は大きく、揺るぎない。だが、今度は自分の背中もまた、同じように大きくなり始めていることに気づいたのだった。


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(第2話「父の背中」完)


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