最後のお茶会
中期試験も終わる頃、遂にフェリクス・フェルゼンシュタインの生徒会における任期は終わりを迎えた。業務の引継ぎも滞りなく行われ、新生徒会長にはリーゼと同じクラスに所属する気真面目な男子生徒が就任することとなった。
そして本日はフェリクスが生徒会長を務める最後の日である。
生徒会室には新旧生徒会長が顔を揃え、フェリクスは生徒会長のみが保有する重要書類保管用の鍵を新生徒会長へと手渡した。
「じゃあ、あとはよろしく頼んだよ」
「あはは……正直フェリクス先輩の後任は気が重いですが、ボクなりに全力を尽くします」
「別に気負う必要はないよ。手引書は残してあるし何か分からないことがあれば彼女に聞けば間違いないから」
彼女、という言葉と共にフェリクスが視線を向けてくるのでリーゼは微笑みながら軽く会釈する。
「最初の頃は慣れないことも多いと思いますので、どうぞ遠慮せずに聞いてください」
「助かるよ。その……リール嬢」
「はい?」
「……同じクラスなのにあまり話したことはなかったけど、君の優秀さについてはもう誰も疑ってはいない。むしろ僕個人としては実力的に君の方が生徒会長に相応しいと思ってるくらいだ」
思わぬ高評価にリーゼが目を瞠る中、彼はさらに続ける。
「けれど実際に平民の君が生徒会長になれば風当たりは酷いものになるだろう。ボクはそういう学院の雰囲気を少しずつ変えていきたいと考えている。これから先、平民だとか貴族だとか関係ない実力が評価される世界は遠からず訪れると思うから」
そう語る新生徒会長はリーゼに対して深々と頭を下げた。
「至らない点も多くあると思うけど、これからよろしくお願いします」
その真摯な態度にリーゼの背筋も自然と伸びる。
正直なところフェリクスという抑止力がなくなった状態での業務継続には一抹の不安を感じていた。しかし彼が新たな生徒会長であるならば、その懸念も杞憂に終わるだろう。素直にそう思えた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
言って、リーゼは右手を差し伸べる。新生徒会長はすぐさま握り返してきた。
人柄と同じく温かな手だ――そう感じた瞬間にふと、大きくて冷たい手の持ち主のことが脳裏を過ぎり、慌てて思考の外へと追い出そうとする。
先日のアンスガー・アルテンベルクとの面会以降、リーゼは些細な事象でもジークヴァルトを連想してしまうことが圧倒的に増えていた。
これはそう……明らかに彼のことを異性として意識してしまっている。
(別に本人から告白されたわけでもないのに……)
自分でも呆れてしまうくらい色恋方面への免疫がない。だから小さなことでも感情が揺さぶられてしまうのだろう。リーゼは周囲に気づかれないようにそっと息を吐いて気持ちを切り替えると、ゆっくり握手を解いた。
そうして全ての作業が終わり、生徒会は解散となった。
用事があるらしく早々に部屋を辞した新生徒会長に続いてリーゼも荷物を纏めていると、不意にフェリクスから声が掛かる。
「リーゼ、君は少し残ってくれる?」
「え? あ、はい」
「ここで君と二人きりになるのも今日で最後だと思うし、良かったらお茶でも」
「っ! ……はい、喜んで!」
弾んだ声と表情を向ければフェリクスも満足げに口角を上げる。
「茶菓子もとっておきのものを用意したから期待してくれていいよ」
「では、さっそくお茶の準備をしますね」
こうしてフェリクスと二人でお茶をするのは本当に久しぶりだった。
王女殿下との婚約発表からフェリクスは本当に多忙を極めていたようで、日課だった一緒の昼食も生徒会室での休憩時間も取れない日々が続いていたのだ。
リーゼはフェリクスが一番好んでいた銘柄の茶葉で丁寧に紅茶を淹れる。
その間に彼は彼で持参してきた焼き菓子やスコーン、サンドイッチなどを応接テーブルに置いた。その豪華さにリーゼは思わず歓声を上げる。
「凄いですね……っ! でも二人じゃ絶対に食べきれませんよこれ」
「余ったら君が持ち帰ればいいよ。ささやかなご褒美ってことで」
「それは……とってもありがたいです!」
フェリクスが用意してくれる食べ物はどれも絶品だ。
色とりどりのお菓子に目移りしながら準備が完了したティーセットを運ぶ。
二人とも席についてホッと息をついたところで、フェリクスがティーカップを軽く持ち上げながら笑った。
「――うん、君の紅茶の腕もだいぶ上がったね。香りも水色もいい」
「こればっかりは先輩のおかげですね。ブルーリリウムのお姉様方にも好評ですよ」
「それはなにより」
美味しそうに紅茶を嗜むフェリクスを真正面から観賞することは、きっとリーゼが思うよりも遥かに貴重で贅沢なものだ。しかしそれも今日で最後。
(色々あったけど……なんだかんだで結構、楽しかったな)
そう、この人と居るのは確かに楽しかった。
だからこそ少しだけ感傷的になってしまう。
ジークヴァルトとは違い、学院を卒業したらフェリクスと道が交わることはもうないと分かっているから。
「……先輩」
「うん?」
「確か来月ですよね、国家公認魔法士の資格試験」
「ああ、そうだね」
「自信は?」
「不合格になる方が難しいかな?」
小首を傾げて笑うその顔は自信に満ち溢れている。
それがいかにもフェリクスらしくてリーゼも釣られるように破顔した。
「なら安心ですね。ちなみに卒業後はどうされるんですか?」
「今のところは王宮へ官吏として出仕することになるかな。それと並行して爵位の継承も進めないといけないから大変そうだけど」
「えっと……継承ってことは、そんなにすぐ公爵家の当主になるんですか?」
素朴な疑問を口にすると、フェリクスは一瞬、言葉を詰まらせた。
しかしすぐに気を取り直したのか穏やかな表情のまま答える。
「臣籍降嫁の際、僕が爵位を継いでいた方が何かと都合がいいからね」
「……そういうものなんですね」
言いながら、リーゼは目の前の男性が急に遠くへ行ってしまったような気持ちになった。
いや実際に遠い存在なのだ。
だって彼は王女殿下の伴侶なのだから。
「……というか、さっきからあまり食が進んでいないみたいだけど」
「え? あー……そんなことはないですよ?」
「普段ならもっと遠慮せず食べてるだろう? ――ほら」
言って、フェリクスは手近にあったクッキーをこちらへと差し出す。
どうやら手ずから食べさせる気なのだろう。
こうした彼の行動自体は別に初めてではない。むしろこの部屋で何度となく行なわれてきたことだ。
けれど、今のリーゼにそれを享受する資格はない。
「……それは先輩が食べてください。私は今、スコーンの気分なので」
そんな言い訳をしながらリーゼはテーブルの上のスコーンに手を伸ばした。
なるべく自然に見えるように気を遣いながら、笑顔を絶やさないように心がける。
最後だからこそ、気まずい雰囲気になるのだけは避けたかった。
しかし、そんなリーゼの行動を咎めるように、
「リーゼ」
彼が名前を呼んでくる。そうなればもう顔を上げることしか出来ないリーゼが緩慢な動作で首を持ち上げた直後、唇に何かが触れた。
「口、開けて」
リーゼは恐る恐る口を開けた。途端に小さなクッキーが口腔内へと放り込まれる。
落さないように慌てて口を閉じれば、今度は彼の指先がそっとリーゼの唇に触れた。
ふに、と柔らかく押されて驚きのあまり目を丸くしていると、
「こうするのも久しぶりなんだから、僕の好きにさせてくれないと困るよ」
そう言って、こうするのが当たり前だとでもいうように彼はふわりと笑ってみせる。
本当にどこまでも自分勝手な人だと思う。
こんなこと王女殿下が知ったら気分を害するに決まっているのに。
「……今日だけですよ」
クッキーを飲み込んだリーゼはそうポツリと零した。最後の最後で拒めない自分を最低だと感じながら。だからだろうか……甘い筈のクッキーは、胸を締め付けるようにほろ苦かった。