噂話
新学期が始まってからは比較的穏やかな日々が続いていた。
ヘルタ・ヒルシュが起こした合同演習の事件についても想像より騒がれることはなく、というよりも学院内外からの圧力により話題に出すこと自体が避けられているような状態だった。
当事者であるリーゼとしては有難いことこの上ない。
あれからジークヴァルトの指導の下、無詠唱魔法についての理解も急速に深まっている。
現在は水の基礎魔法と風の基礎魔法、そして土の基礎防御魔法と光の基礎治癒魔法までは無詠唱で発現させることに成功していた。まだまだ完璧とは言えないが、二回生の初めの頃に比べると恐るべき進歩である。
無論、ペアで行なう実技演習での成績も良好。
いつしかクラス内で一位を取ることも珍しくなくなっていた。
放課後は放課後で生徒会の仕事をしたり自主訓練をしたりと充実しており、忙しくしているうちに夜魘されることもほとんどなくなっていた。ちなみにフェリクスから半ば強制的に持たされたアイスブルーのリボンタイは、あの日から寝る前にリーゼの手首に必ず巻かれている。なんとなく、お守り代わりとして。
そんなわけでリーゼの学院生活はまさに順風満帆だった。
しかしそれは嵐の前の静けさのようなものであり、騒動の種はいつだってすぐ近くに存在している。
かくして新学期が始まってから二ヶ月半が過ぎた頃。
朝早くから教室内で授業の予習をしていたリーゼのもとにクラスメイトの女子数名が近づいてきた。普段は無視されることが多いので大変珍しいことである。
「リールさん、少しよろしいかしら?」
リーゼはノートから顔を上げると「なんでしょうか?」と僅かに緊張しながら応じる。
するとクラスでも目立つタイプの令嬢が代表して口を開いた。
「フェルゼンシュタイン様の例の噂、実際のところはどうなっているのかしら?」
「……あの、今ひとつ話が見えないのですが。会長の噂っていったいどんな?」
もしかして次期生徒会長の件などでしょうか、と唯一の心当たりを提示してみるが相手の反応はどこか白けたものだった。
「それ本気で言ってますの? 校内でも知らない者はいないくらい広まっている話ですわよ?」
「そうなんですか。すみません、噂話には疎いので……」
というよりも学院内で会話する人間が講師以外ではフェリクスとジークヴァルトしかいない。
ジークヴァルトは噂話などするタイプではないしフェリクスは当事者のようなので、リーゼの耳に届かないのも道理である。
「よろしければ教えていただけませんか?」
流石に内容が気になってそう願い出れば、令嬢は肩を竦めながらも律儀に答えてくれた。
「フェルゼンシュタイン様のご婚約の件よ」
思わぬ単語の出現にリーゼは軽く目を瞠る。
「――婚約、ですか?」
「なによ、本当に知らなかったのね」
「ええ、初めて耳にしました。ちなみにお相手は?」
「それが我が国の第三王女殿下であらせられるとのことよ。次の夜会で大々的に発表されるんじゃないかって話題になっているの」
「第三王女殿下……」
まさに大物中の大物である。
リーゼが驚きのあまり目を瞬かせると、令嬢はどこか小馬鹿にするように口もとで弧を描いた。
「その様子じゃフェルゼンシュタイン様からは何も聞かされてないのね。まぁ貴女は所詮、生徒会の小間使いなのだから当然と言えば当然だったわ。勝手に期待してしまってごめんなさいね?」
まったく謝る気のない言葉を吐くと令嬢は取り巻きを連れてさっさと離れていく。だがリーゼはリーゼでそんな嫌味など気にする暇もなかった。
(先輩が王女様と婚約って……)
まさに寝耳に水である。確かにここ最近は忙しくしているとは思っていた。だがそれは次期生徒会の引継ぎやら卒業に向けての準備なのだと勝手に解釈していた。
(いや、婚約だってある意味では卒業後の準備なのかもだけど――)
リーゼは無意識のうちに右手首を撫でた。そこには何もない。けれど、毎日日課にしているリボンタイの感触はきちんと思い出せる――思い出せて、しまう。
(……聞いたら、答えてくれるかな)
令嬢はあくまでも噂話だと言っていた。ならば間違っている可能性も十分にある。
リーゼは真相を確かめたい気持ちを刻々と強くしながら授業をやり過ごし、放課後を待った。
そしていつもより足早に目指した生徒会室にて、
「――ああ、事実だよ」
あっさりと認めたフェリクスを前に、どこか途方に暮れてしまった。
(本当に結婚するんだ、王女様と)
何故か、胸の中に小さな穴が開いたような心地がした。
フェリクスは公爵家の次期当主なのだから、いずれ相応しい令嬢を伴侶に持つことは容易に想像出来た。それなのに今更ショックを受けている自分がいる。
(そもそも、この関係は先輩が卒業したら終わるものなのに)
もともと住む世界が違うのは重々承知していた筈なのに。
いつの間にか一緒に居るのが当たり前のように思えていた。
「先輩」
リーゼは胸の裡に渦巻く様々な感情すべてを呑み込むと、気合いで笑顔を作り上げた。
「ご婚約、おめでとうございます」
そして言祝ぐ。たとえ本心ではこれっぽっちも祝う気持ちになれなくても。そうするのが正しいことだと理解しているから。
そんなリーゼの葛藤など知る由もないフェリクスは、少しだけ腑に落ちないような表情を覗かせつつも「ありがとう」と事務的に返してきた。さらに彼は続けて言う。
「来週開かれる王家主催の夜会で正式発表になる予定なんだよね。その後は今よりもっと忙しくなると思うから、君にもそれなりに負担を強いることになるかもしれない」
「分かりました。生徒会関連なら私も力になれると思うので遠慮せずに頼ってください」
「そこは大いに期待してる。僕の任期は再来月までだけど卒業までは後任の面倒を見るつもりだから、君も手伝ってね」
「はい」
そうやって普段通りの態度で言葉を交わしながら、リーゼはそっと胸元に手を当てる。
(……大丈夫、ちゃんと取り繕えてる)
これはそう、たぶん一時の感傷のようなものなのだ。
恋と呼ぶには曖昧で淡すぎる、でも確かに存在していた温かくて柔らかいその感情を――リーゼはそっと、胸の奥に押し込めた。