後始末と後遺症【2】
連れ込まれた先は娼館内にある上得意客専用の一室だった。
しかし普通なら待機している筈の蝶の姿はない。そのままリーゼはフェリクスによって強制的にベッドへと転がされた。さらに手早く靴まで脱がされてしまう。ふかふかとした上質な手触りに思わずたじろぎつつ、ベッド中央に所在なく座ったリーゼは訝し気な顔をしながら問う。
「……どういうつもりなんですか、これは」
「言っただろう? 客として君を指名したと」
「いや、そんなこと出来る筈が――……」
そこまで反射的に言いかけたが、ふとリーゼは思い返す。以前、ガブリエラがフェルゼンシュタイン公爵とは懇意にしていると話していた。つまりその子息であるフェリクスならば、ある程度の無茶は通るのかもしれない。
「……もしかして、ガブリエラの許可も取ってるんですか?」
フェリクスは無言の笑みを浮かべた。どうやら正解ということらしい。
だが、それはそれで新たな疑問が生じる。
「ということは、私との関係をバラしたんですか?」
「君がここで働いていることを僕が黙認しているとは話した。それ以外は特に触れてはいないよ」
彼はベッド脇にある椅子に座ると、徐にベッドを軽くポンポンと叩いた。
意図が掴めないリーゼが小首を傾げれば、どこか呆れたような表情で口を開く。
「君は鏡を見ていないのか?」
「は? え、ちゃんと見てるつもりですけど?」
「では君の眼は節穴ということだな……顔色が悪すぎるし目の下の隈も酷い。碌に寝てないんだろう?」
図星を指されたリーゼは返す言葉が思いつかず口ごもった。
それを肯定と受け取ったらしいフェリクスが、はぁと大きな溜め息を吐く。
「――長期休暇だから仕事を詰めすぎて睡眠時間を犠牲にしているのかとも考えたが……その様子だと眠りたくても眠れないという方が正解みたいだね」
「……」
「いつから寝られてないんだ、なんて質問には意味がないから別の質問をするよ。――どうして黙ってたの?」
「……? どういう意味ですか、それ」
「なぜ僕に相談しなかったのかと聞いている」
相談、という単語にリーゼは素で驚いてしまった。
「そんなの、考えてもみませんでした」
「……それこそ、なぜだ?」
「だって、こんなこと相談しても相手を困らせるだけじゃないですか」
夜に眠るのが怖いなんて、リーゼの心がただただ弱いだけだ。
解決方法なんて自分の心を強く保つよりほかない。つまり誰かに何かをして貰うような話ではないのだ。
そう訴えれば、フェリクスは茶化すでも貶すでもなく、真面目な顔で言った。
「僕は困らない」
「……嘘だ」
「嘘じゃない。むしろ不調を隠される方が遥かに迷惑だ」
何度も言っているだろう、と彼はリーゼの頭に右手を伸ばす。
「君は今、僕のものだ。だから僕は飼い主として君を把握し、時には甘やかすのも仕事のうちなんだよ」
無遠慮にこちらの髪をぐしゃぐしゃと撫ぜながら、フェリクスが一際、柔らかい声音で笑う。
その言葉の通り、リーゼを甘やかすように。
続けて彼はリーゼに不眠の症状について問うてきた。隠す方が迷惑と言われてしまえばもはや隠し立てする意味はなく、リーゼはポツポツと自覚している状態を明かす。
「じゃあ、傍に誰かが居れば多少は眠れるってことか」
「そうですね……娼館の仮眠室とかなら二時間くらいは仮眠が取れてます」
「それなら簡単だな。リーゼ、今すぐにここで寝ろ」
「…………は?」
ポカンと口を開けたリーゼに対して、フェリクスが再びベッドの枕元を叩く。
「心配しなくてもこの部屋と君は朝まで僕が買ってるし、ずっと傍に居るから思う存分寝ると良いよ」
「い……いやいやいやいや!? そんなの無理ですって!!」
「なぜ?」
「え、だ、だって……っ! 先輩は男の人じゃないですか! いくら図太い私だって流石に男の人と部屋に二人きりじゃ眠れませんよ!」
「……」
「なんで素で驚いてるんですか! ……そりゃあ、先輩にとっては私なんか女子じゃなくて犬みたいなものかもしれませんけど……私にだって一応は羞恥心というものがあるんですよ……」
自分で言ってて少し切なくなった。
きっとフェリクスからすればリーゼは女子ではなく下僕の括りなのだろう。故に二人きりだろうが色めいた感情など微塵も湧かないに違いない。しかしリーゼからすればフェリクスは絶世の美男子で多少思うところはあるが概ね尊敬すべき先輩である。恋愛感情の有無はさておき異性として意識するなという方が無理な話だ。
「ということで、お気持ちは大変嬉しいですが丁重にお断りいたします」
リーゼは僅かに熱くなった己の頬に気づかないふりをしながら、フェリクスにぺこりと頭を下げる。
そしてそのままベッドを降りようとするが――
「うわっ!?!?」
その前にグイっと腕を取られると後方へと押し倒されてしまった。
ベッドに仰向けの状態となったリーゼの視界に映るのは、ベッドに乗り上げてこちらをジッと覗き込むフェリクスで。
(ち……近い近い近い!!!)
彼の綺麗なアイスブルーの瞳に自分の間抜けな顔が映り込む。それが堪らなく恥ずかしくて強引に横向きの体勢になってぎゅっと目を瞑れば、
「……はぁ、まさかこの僕が試される羽目になるとはね……」
頭上からフェリクスの悩まし気な声が降ってくる。その後すぐに彼が自分の上から退くのが分かって思わずホッとしていると、今度はベッド脇にあった毛布がふわりとリーゼの身体に掛かった。
驚いて咄嗟にフェリクスの方へと視線を向ければ、彼の掌が自分の目元を優しく覆う。
「いいから大人しく寝ろ。言っておくけどこれは命令だからそもそも君に拒否権はないよ」
そんな理不尽な、と思いつつも弱みを握られている身であるために反論するだけ無駄だと悟る。
「……分かりましたから、手、退けてください」
離れていく大きな手を横目に、リーゼはフェリクスに背を向ける形で身体を丸めると毛布を頭まで被った。年頃の乙女として寝顔を見られることだけは死守したい。
そんなこちらの意図が伝わったのか、フェリクスがクスリと笑う気配がした。
少しばかり恨めしい気持ちを抱きつつも、リーゼは毛布越しに彼へ質問する。
「あの、先輩は寝なくていいんですか?」
「ご心配なく。眠くなったら奥のソファーで寝るよ。……ああ、もしかして同じベッドで寝たほうが良い?」
「ッ!?!!?!」
「あははっ……冗談だよ、冗談」
機嫌良さそうなフェリクスにこれ以上揶揄われてなるものかと、リーゼはさらに身体を丸めて寝る姿勢を取る。するとひとしきり笑った後で彼が柔らかく言った。
「おやすみ、リーゼ」
「……おやすみなさい」
むっつりと返事をしたリーゼは色々と諦めて目を瞑る。
すぐ近くにはフェリクスの気配が確かにあって、全然落ち着かないけど、同時に酷く安心もする。
不思議な感覚だった。まるで起きているのに夢の中にいるみたいな非日常感。
(……先輩がいてくれるなら、うん。確かに怖くない……)
目を閉じて少し横になっただけで、リーゼの身体を睡魔が急激に襲ってくる。
昨日までは身を委ねることが出来なかったそれを、リーゼは今日に限ってはすんなりと受け入れた。
一方、フェリクスは十分も経たずに寝息を立て始めたリーゼ(毛布の塊)を見ながら、
「……まったく、意識してると言う割には無防備で困るなぁ」
珍しく苦笑いを浮かべるのだった。