後始末と後遺症【1】
結論から言えば、ヘルタ・ヒルシュ子爵令嬢は退学処分となった。
彼女は最後まで自身の罪――すなわちリーゼへの暴行や殺人未遂については一切省みることはなく。
代わりにジークヴァルト・シュトレーメルに関する事柄ばかりを供述していたらしい。
彼はあの平民に騙されている。
彼のような崇高な存在があの平民を気に掛けること自体が看過出来ぬ過ちである。
過ちを正せるのは自分だけ。
だからあの平民は消されて当然の存在。
自分は何も間違ったことはしていない。
いつか彼もわたしの献身に気づいてくれる筈。
当事者として彼女の供述書を読ませて貰ったリーゼはその内容に絶句するほかなかった。
そんなヘルタの身柄は現在、貴族用の幽閉塔にある。この後の裁判次第となるが、フェリクスの見立てではおそらく罪を犯した貴族女性が収監される僻地の修道院で一生涯を送ることになる可能性が高いとのことだった。リーゼとしても二度と彼女とは会いたくないしジークヴァルトの傍にいて欲しくはないので、そうなることを心から祈るばかりである。
――あの合同演習から、既に二週間。
被害者として学院側から手厚い治療と便宜を図って貰ったリーゼは日常へと回帰していた。
幸いにも学院は長期休暇に突入しているため、周囲の好奇に晒されることもない。
(……まぁ、新学期が始まってからの反応がちょっと怖いけど)
そんなリーゼは今日も娼館ブルーリリウムの執務室で事務作業に勤しんでいた。
夏季休暇中はリーゼにとって絶好の稼ぎ時でもある。ブルーリリウムでの仕事はもちろん、昼間は街の食堂でも働いている。そして予定がない日は大抵、魔法の自主訓練を学院にて行なっていた。
ふわぁと欠伸を漏らしながら、リーゼは帳簿相手に手を動かしていく。
正直、忙しくしているうちは何も考えなくていいから気が楽だ。
というのも例の一件以来、暇になるとどうしてもヘルタのことを考えてしまう自分がいる。
彼女が自分の理解の及ばない人種であるということは分かっているつもりだ。それでもあの夜に感じた恐怖や彼女の言動を不意に思い出してしまうのだ。
完全に治ったはずの背中が時折、熱を持ったように疼く。
夜中に一人で居ると恐怖で身体が勝手にガタガタと震えてしまう。
表面的な怪我は治っても、リーゼの精神には重大な後遺症が残っている。
特に顕著なのは不眠症だ。あの日以来、リーゼは夜に一人で眠ることが出来なくなった。
しかしそれは自分で克服するより他ないのだ。母を喪っている以上、他に頼れる人も居ない。
『……ねぇリーゼ、なんか顔色悪いけど大丈夫?』
『あまり眠れてないんじゃない? せっかく学院がお休みなのだから少しは羽を伸ばしなさいな』
このようにガブリエラやブルーリリウムの従業員達から頻繁に心配されるくらいには、リーゼの不眠は重症の一途を辿っている。それでも無理やり娼館の仕事をさせて貰っているのは、なるべく夜に一人になりたくないからだ。
娼館は不夜城。常に人の気配があるこの場所は、今のリーゼにとって数少ない安息地になっていた。
肉体的な眠気はある。だが、眠るのが怖い。
そんな心境を抱えたリーゼが黙々と作業をしていると、扉をノックする音があった。
「はい?」
「リーゼ、いま大丈夫?」
扉からひょっこり顔を出してきたのは娼婦のビアンカである。
リーゼは帳簿を閉じると「大丈夫ですけど」と言って彼女を促した。するとビアンカは背後に向かって「大丈夫だって!」と嬉しそうに話す。
「? 誰か居るんですか?」
「むふふ~、誰だと思う~?」
悪戯好きの猫のような顔で笑うビアンカに首を傾げれば、彼女の背後から男性が現れる。
その顔を見た瞬間、リーゼは思わず目を見開いた。
「っ~~~なんで、こんなところに居るんですか!?」
「決まってるじゃないか。客だよ、客」
堂々とした態度でそう告げてくるのは、銀の髪にアイスブルーの瞳を持つ圧倒的美丈夫。
そう、フェリクス・フェルゼンシュタインその人である。
「なんかぁ、リーゼに用があるっていうから連れてきちゃった!」
「いや連れてきちゃダメですから!!!」
「えー? ダメだったの? だって知り合いなんでしょ?」
確かに以前ブルーリリウムでフェリクスと邂逅した際、近くにはビアンカも居た。あの時のやりとりから自分達が知り合いであると判断したのだろう。だからと言って従業員専用のスペースに連れてくるのはいただけない。
「と、とにかく! ここにお客様を入れるのは拙いので!」
リーゼはフェリクスが執務室に入る前に自らが部屋の外に出ることを選択した。
流石に帳簿があるところに部外者を入れることは出来ない。
そうして後ろ手に扉を閉めたリーゼは、必然的に従業員通路でフェリクスと対峙する羽目になる。
こちらを見下ろすその目がどこか不機嫌そうなのを感じ取りつつも、努めて冷静に問うた。
「いったい何のようですか? わざわざ私を訪ねてきたってことは何か緊急の用件でも?」
「……別に急用という訳ではないかな」
「は? じゃあ何でこんなところに来てるんですか? え、もしかして本当にお客として……?」
まさか一夜の蝶を買いに来たということだろうか。
信じられない気持ちを抱えつつリーゼがおずおずと尋ねれば、彼は大きな溜め息と共に首肯した。
「まぁ、そういうことになるかもしれない」
「っ! ……そう、ですか」
自分でも驚くほど、リーゼはフェリクスの返答にショックを受けていた。
別に彼だって若い男性なのだから、娼館を利用したって何らおかしなことはない。
それなのに本人からいざ肯定されると胃の辺りがぎゅっと縮むような心地になる。
だがそれを悟られるのも嫌で、リーゼはグッと息を呑むと一転して作り笑顔を浮かべた。
「なら、なおさらこんなところに来たら駄目ですよ! というかご指名誰にします? あ、もしかしてこちらのビアンカ――」
「リーゼ」
「はい?」
「だから、指名は君」
「はいぃ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げたこちらの手を掴み、フェリクスが事の成り行きを見守っていたビアンカに言う。
「では、彼女は借りていく。オーナーにもよろしく伝えておいてくれ」
「はいは~い! あ、気が向いたらあたしのことも今度指名してくださいね?」
「悪いけど別の女に浮気するつもりはないかな、ごめんね?」
リーゼが口を挟む間もなくビアンカと軽口を叩き合ったフェリクスが、会話を切るとすぐにこちらの手を引いて歩き始める。
その手の熱さと力強さ、そして彼の有無を言わさぬ態度にリーゼは抵抗することが出来ない。
(……ほんと、何しに来たんですか先輩……)
こちらを振り返らずに迷いなく進む背中を仰ぎながら、リーゼは困惑と共にそっと溜息を零した。