合同演習【9】
今にもこちらに走り寄ってきそうな雰囲気のヘルタにリーゼは思わず恐怖した。
昨夜の痛みが脳裏を焼き身体が硬直する。だが、そんな自分の肩を引き寄せる大きな手があった。
「――それ以上近づくな」
威嚇というに相応しい温度で、ジークヴァルト・シュトレーメルは低く唸った。
リーゼを抱き寄せたまま彼は真っ直ぐにヘルタを射抜く。
するとヘルタはその瞳に悲しみを湛えながら大粒の涙を流した。
「シュトレーメルさま、ご、誤解なんです……っ! 昨日、わたしが結果的にリーゼさまを見捨てて逃げてしまったのは事実、ですけど……わたしも、とても怖くて、それで……っ」
必死に言い訳をするヘルタを一同は困惑気味に注視するほかなかった。
何も知らずに訴えを聞けば思わず信じてしまいそうなほど、彼女の言動は真に迫っている。
「……君には学院に帰還するまで離れて待機するようにと伝えていた筈だが?」
「っでも、一刻も早く謝りたかったのです……っ! それに、怪我もしてるって耳にして、心配で……っ」
フェリクスの冷たい物言いにも動じず、ヘルタが切々と言葉を紡ぐ。
彼女は再び視線をリーゼに向けると申し訳なさそうな表情をしながら懺悔でもするように両手を組んだ。
「リーゼさま、本当にごめんなさい……っ! 全部わたしが悪いんですっ……でも、どうか赦してくださいませんか……? お願いいたします……っ」
リーゼは薄ら寒いものを感じていた。
昨夜の彼女は間違いなく明確な意志のもとにリーゼを殺そうとしていた。
にもかかわらず旗色が悪いと判断するや否や、自主的に謝罪することで周囲の印象を操作し、事件ではなく事故であったという方向に持っていこうとしている。
(……怖い)
彼女から離れたくてリーゼは咄嗟に後ずさろうとした。しかし背後にはジークヴァルトが居るため必然的により密着する形になる。彼は怯えるリーゼの心境を察したのか、こちらの肩を抱く手の力を僅かに強めた。
「リーゼ」
ジークヴァルトが耳元で囁く。
「大丈夫だ。お前が正しいと思うことを言えばいい」
「……うん」
恐ろしいという気持ちが消えたわけではない。だが、逃げるわけにはいかない。
リーゼは意を決して顔を上げるとヘルタに向き合った。
「……昨日のこと、ヒルシュ子爵令嬢はあくまでも事故だと仰りたいんですか?」
「っ! ……ええ、もちろんですっ! 森でリーゼさまとはぐれてしまったわたしが悪いのですが、それでもこんなことになるなんて、思ってもいませんでした……」
「ですが私に風の攻撃魔法を使用しましたよね?」
「そ、そんなことしていませんっ!!」
「背中も踏みつけられましたし罵倒もされましたが」
「……酷いです、リーゼさまっ……お怒りになるのは分かりますが、わたしはそんなこと絶対にしていません……っ!!」
「あくまでも白を切り通されるつもりですか?」
「っ……いくらわたしが悪かったとしても、やっていないことを認めることはできません……っ」
会話をしながらリーゼはこれ以上は何を言っても平行線であることを悟った。
彼女が真実を話すことはないだろう。きっと反省も後悔もしていないに違いない。
「……私はヒルシュ子爵令嬢にされたことを決して忘れていません。ですので正式に抗議の上、後の判断は学院側に委ねたいと思います」
「っ……そんなにわたしを悪者にしたいのですね、リーゼさまは……」
シクシクと両手で顔を覆い泣き出したヘルタを、彼女をこの場へ連れてきた教員の一人が慰めるようにして背中をさする。何とも言えない空気の中、口火を切ったのはフェリクスだった。
「――茶番は終わりだ、ヒルシュ子爵令嬢」
「え……?」
ヘルタが涙を拭いながら顔を上げるのをジッと見据えながら、フェリクスが淡々と告げた。
「リール嬢の証言だけならば事故として処理される可能性もあっただろう。だが、複数の証言により君の言動の矛盾は既に確認されている。これが意味するところは分かるか?」
「……わ、わかり、ません」
「正式に事件として現場検証が行われるということだ。既に現場である森は立ち入り禁止となっている。リール嬢の証言ではかなり派手に風の魔法を使ったようだから、おそらく痕跡も残っているだろう」
「っ……そんな、の、わたし、知りません」
「ならば堂々としていればいい。まぁ、リール嬢の証言が真実ならば君が行なったことはれっきとした殺人未遂だ。真実が明らかになればいくら貴族令嬢とて重い処罰は免れないだろうね」
言って、フェリクスはヘルタと距離を詰める。
そして顔を青くする彼女を見下ろしながら冷たい瞳で微笑んだ。
「――愚かにも僕のものに手を出したんだ。我が家の威信にかけても相応の報いは必ず受けさせる」
その場にいる誰もが瞬時に理解した。
ヘルタ・ヒルシュは決して触れてはならない逆鱗に触れたのだと。
ガタガタと震えながらヘルタはその場にしゃがみ込んだ。それはおそらく演技ではない。
(……先輩、ありがとうございます)
リーゼは心の中でお礼を言う。フェリクスは自身の影響力を正しく理解しているがゆえに、自身の家の力を行使することにはとても慎重だ。にもかかわらず、彼はそのカードを切ると宣言した。
ほかでもないリーゼのために。それが素直に嬉しかった。
「リーゼ」
ジークヴァルトに名を呼ばれ、我に返ったリーゼは反射的に後ろを振り返る。
だが焦り過ぎたためか足元が覚束ずによろけてしまった。そこをジークヴァルトが危なげなく抱き留める。さらに彼はそのままリーゼをひょいと抱き上げてしまった。
「ちょ、ジーク!?」
「いいから大人しくしてろ」
恥ずかしさに下ろして欲しいと抗議しようとしたが、鋭い視線だけで制されてしまう。リーゼは仕方なくジークヴァルトの腕の中に納まりながら、おずおずとその首に手を回した。
しかしその瞬間、背中に突き刺さるような鋭い視線を感じた。咄嗟に首を動かせば、こちらを射殺さんばかりの表情をしたヘルタの視線とかち合う。刹那、ぞくりと背筋を冷たいものが襲った。
「――なんで」
まるで血反吐を吐くような、粘っこい声がテント内に木霊する。
「――してやる……殺してやる、お前だけはぁ!!!!」
誰もが突然の豹変に思わず息を呑む。ヘルタはその隙をついて強引に自分を拘束する教員の手から逃れると、リーゼ目掛けて突進した。その手にはいつの間にか金属製の何かが握られている。先端が鋭利な刃物のようになっている髪飾り。ヘルタはそれを躊躇なくこちらに振り上げる。
恐怖で目の前が真っ白になったリーゼは、それでもジークヴァルトだけは守らなければと咄嗟に無詠唱の防御魔法を展開しようとしていた。だが、昨晩からの魔力枯渇によりそれは失敗する。
(――あ、だめ)
絶望がリーゼの心を支配しようとする中、それは唐突に起こった。
「ぎゃあああああ!??!!?!!」
ヘルタの絶叫が耳を劈く。見れば彼女はいつの間にか地べたに伏していた。
――否、正確には這いつくばらされていた。それを成しているのは地面から生えた無数の黒い鎖。
それらはヘルタの身体のありとあらゆる部分に巻き付いて彼女を完全に拘束している。
未だにギチギチと音を立てていることからヘルタには相当な負荷が掛かっていることは容易に知れた。
「闇、魔法?」
光属性よりも更に稀少な属性――闇。
リーゼは最初、教員の誰かの魔法が間に合ったのだとばかり思っていた。
だがすぐに気づく。自分の肌を焦がすような強い魔力の波動。その出所に。
「――誰が、誰を殺すって?」
ジークヴァルトはリーゼを抱えたままヘルタを睥睨した。
そんな彼の凍てつく声に反応し、彼女はゆっくりと面を上げる。
驚くことにヘルタの表情には隠し切れない喜色が滲んでいた。
「ああ、ジークヴァルトさま……やっとわたしだけを見てくれた……っ!」
まるで恋焦がれる乙女のような表情で、ヘルタが地面からジークヴァルトを仰ぎ見る。
その瞬間、リーゼはあの夜の森で聞いた言葉の意味をようやく理解した。
(……そうか。先輩じゃなくてジークの方だったんだ)
だが、それが今更分かったところで何かが変わることはない。
ジークヴァルトは不快と嫌悪を露わにしながら言った。
「次にこいつに何かしたら俺がお前を殺してやる」
それを聞いても彼女の表情はどこか恍惚としていた。
あまりにも異質。まるで怪物と対峙しているような気分だった。
ほどなくヘルタは教員達によって改めて拘束され、その場から引きずり出されていった。
こうして合同演習は強制的に幕を閉じる結果となった。
長かった合同演習もこれにて終了となります。
そしてこの物語もようやく折り返しを過ぎました。
引き続きお楽しみにいただければ幸いです(明日からも基本毎日更新いたします)。