合同演習【6・フェリクス視点】
腕の中で気を失ったリーゼを、フェリクスは汚れも厭わずに強く――だけど優しく、抱きしめた。
満身創痍の彼女の姿に心臓が軋むように痛む。あと一歩遅ければ永遠に喪っていたかもしれない。
決して誇張でもなんでもないあり得た最悪の未来に、フェリクスはグッと奥歯を噛みしめた。
(……感傷に浸るのは全てが済んでからだ)
フェリクスは無言で光属性の治癒魔法をリーゼに施す。しかし治癒魔法はあまり得意な方ではないため、あくまでも応急処置としてだった。治癒魔法は怪我に作用するとともに僅かだが失われた魔力を回復させる効果も持つ。魔力を使い果たしたリーゼの体力を少しでも回復させるのが目的だった。
リーゼの全身を淡い金色の光が包み込む。その間にフェリクスは彼女の汚れた頬を指で丁寧に拭った。全身ずぶ濡れで泥に塗れた酷い状態。それでも指先に伝わる頬の熱さにホッとする自分がいる。
治癒魔法の効果で頬や手足の擦過傷はほぼ癒えている。心なしか表情も和らいでいた。だが額に手を当てると熱があることは明白。フェリクスはそこで一度魔法を停止させる。そして意識のないリーゼを丁寧に抱き上げると、そのまま野営地を目指して歩き出した。
風属性の移動魔法を使った方が早いが、この状態の彼女を激しい夜風に晒すのは体調の悪化を招きかねない。少し時間は掛かるが、フェリクスは負担の少ない方法を選択した。
だが、それは理由の半分でしかない。もう半分の理由は非常に身勝手なものだ。
(――野営地に着く前には僕も精神を落ち着かせなければならない)
自分の中の魔力が激しく揺らいでいることをフェリクスは自覚していた。今までに抱いたことのないほどの強い怒りが己の内側に渦巻いている。もし今、目の前にこの状況を引き起こした犯人が居たのならば――フェリクス自身、何をするか分からない。
フェルゼンシュタインの名を冠する以上、失態は赦されない。
常に冷静であれと教えられてきた。常に完璧であれと強いられてきた。それが当然だと思っていた。
だから、ここまで激しい感情が自分の中に存在しているなんて、フェリクス自身も知らなかった。
(……ただで済ませるつもりはない)
報いは必ず受けさせる。けれど同時に理性的でなくてはならない。そうでなければただの私刑になってしまう。それはおそらく腕の中の彼女も望むところではないだろう。
(この子は……僕と違って優しいから)
改めてリーゼの顔を覗き込む。彼女はぐったりとフェリクスの胸元に頬を寄せながら、不規則な呼吸を繰り返している。こんなにも弱々しい姿を見たのは当然初めてで、フェリクスの胸に苦いものが込み上げてくる。
治癒魔法は外傷には有効だが病気には効果が薄く、気休め程度にしかならない。
それでもフェリクスは無言で治癒魔法をもう一度発動させた。それを維持したまま崖上へと至る道を迷いなく進む。事前に森の中の地形と道を頭に叩き込んでいて正解だったと、内心で自分の几帳面さに自嘲が漏れる。
「……もうすぐ着くから。君は何も心配しなくていい」
眠っている相手に返事を求めず、フェリクスは囁いた。自分でも驚くほどに柔らかい声で。
すると、それに反応してか、リーゼの長い睫毛がピクリと動いた。
そのまま緩やかに瞼が開いていく。ぼんやりと定まらない視線がこちらの顔を捉えるまで、フェリクスはジッと待った。
「…………せん、ぱい?」
「そうだよ。僕が傍にいるから安心して寝てていい。もうすぐ野営地に着くから」
「やえいち……」
彼女は依然としてぼんやりとしながらも、次の瞬間には顔をくしゃりとさせて笑った。
「……たすけて、くれて……ありがとぉ……」
まるで幼いこどもみたいな舌足らずな言葉は、普段の彼女からは想像もつかない程に無防備で。
思わず息を呑んだフェリクスだったが、何故だか堪らない気持ちになって抱きかかえる腕の力を強めた。放したくないと、本能がそう告げるみたいに。
(――ああ、そうか)
この瞬間。
フェリクス・フェルゼンシュタインは己すら気づいていなかった感情の名を、知った。