合同演習【5】
意識を手放していたのは、おそらくほんの数十秒ほどだったのだろう。
そうでなければ間違いなくリーゼは死んでいたのだから。
「……かはっっ!!! ごぼっ……げほげほっ……っっ」
最初は息苦しさに必死でもがいた。水の中にいる、ということは全身の感覚からすぐに知れた。しかも水流によって軽く身体が押し流されているのも分かった。リーゼはとにかく水の流れには逆らわず、浮上することだけを意識し続けた。
そして顔が水面から出た瞬間、大きく息を吸い込む。ゴホゴホと咳込むが、それでも一気に呼吸が楽になった。
(水の中ってことは、おそらくここは川――!)
なけなしの体力を振り絞りながら、リーゼは水面から顔を出した状態で左右に視線を振る。そして近い方の川岸を目指して泳ぎ始めた。天運も味方したのか、川岸までの距離はそれほど遠くなく、川の流れも緩やかで泳ぎの妨げとしては軽微だった。
足が地面に着いた瞬間、リーゼの震えていた心は深い安堵に包まれた。
そのままよろよろと歩いてなんとか岸部へと倒れ込む。もう指一本動かすのも苦痛なほど疲れ切っていた。
自分が奏でる激しい呼吸音を聞きながら、リーゼは命が助かったことを改めて実感する。
全身ずぶぬれな上に寝転がった地面の泥を纏い、髪も顔もおそらくぐちゃぐちゃになっているだろう。
(それでも……生きてるって素晴らしい……)
思わず涙が零れた。泣いたのは母が亡くなって以来だ。それほどまでに、精神的にも肉体的にも摩耗していた。
だが、いつまでも寝転がっているわけにはいかない。
(ここは……おそらく、学院の管理外区域)
昼間の会話を思い出す。リーゼが今いるのは崖下の川を挟んで反対側。つまり中型以上の魔獣も生息しているという危険区域である。
横たわって見上げた先の崖は遠く、自力で登るのは不可能。
そして今は皆が寝静まった夜であり、捜索が期待できるのはおそらく明け方以降――自分の姿がないと班員に知れ渡った後になるはず。
(それまで、どこかに身を隠すのが得策だよね……)
もし死体を確認しようとヘルタが川岸に下りてきたら――そう考えるだけで背筋が凍り付く。
今のリーゼに彼女を退けるほどの力はない。背中を中心に全身酷く痛めつけられており、あれだけあった魔力も今は非常に心もとない。
きっと川に落ちる瞬間に発動させた魔法が根こそぎ魔力を持っていったのだろう。しかしそうしなければ死んでいたことを考えれば、そんな対価など安いものである。
リーゼはなんとか仰向けの状態からうつ伏せになり、両腕を突っ張って身体を起こす。
その時、全身は水に濡れて冷えている筈なのに右足だけがズキズキと熱を持って痛むことに気づいた。
僅かに動かすだけでも鋭い痛みが奔る。
(……ははっ、これは……折れてるかなぁ)
もはや笑うしかなかった。これでは逃げることはおろか、少しの移動すらままならない。
今の自分に出来ることは、ジッと息を潜めて救助を待つ。ただそれだけのようだ。
(せめて……夜明けまでは見つかりにくい場所に……っ)
ヘルタだけでなく、魔獣に襲われでもしたらひとたまりもないだろう。
リーゼは痛む右足を懸命に庇いながら必死に立ち上がり森の方へとじりじり歩き始める。
そうして川岸からは視線を遮れる巨木を見つけると、その根元に座り込んだ。
そのまま息を殺して蹲る。誰にも見つかりませんようにと祈りながら。
(……なんで、こんなことになったんだろう)
たったひとり暗い森の中で、リーゼは奥歯を噛みしめながら状況を整理する。
豹変したヘルタ。しかし彼女の言動から、最初からこちらに恨みや憎しみの感情を抱いていたことは容易に知れた。おそらく積極的に声を掛けてきたのも、こちらの油断を誘うことが目的だったのだろう。
流石に殺したいほど恨まれるようなことを彼女にした記憶はない。
そして彼女はこうも言っていた。
『わたしはねぇ、お前みたいな平民があの人の傍に居るなんて絶対に許せないの』
あの人、とはおそらくフェリクスのことだろう。
ヘルタと比べれば以前に徒党を組んで脅してきた令嬢集団は遥かに可愛げがあった。
少なくとも死の危険を感じることはなかったのだから。
(ほんと、先輩に下僕扱いされるようになってから碌なことがない……)
だけど、別に彼自身が悪いわけではない。周囲が勝手に暴走しているだけなのだから。
それでも――
(……怖い)
リーゼはカタカタと震える身体を必死で抑えつける。本当は、子供みたいに泣きじゃくりたかった。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。何も悪いことをしていないのに。
あまりにも理不尽で。痛くて辛くて苦しくて。それを今もひとりで耐えるしか出来なくて。
(――たすけて)
ぎゅっと目を瞑り、リーゼは心の中で呟く。
(たすけてよぉ……せんぱい……っ)
せめてこんな状況にした責任くらい、取って欲しい。
夜風で身体は芯まで冷え切っている筈なのに何故か全身が今は燃えるように熱い。意識を保つだけでも精一杯だ。もうこのまま眠ってしまいたい。
孤独がリーゼの心と身体を急速に蝕んでいく。自分でも拙いと分かっているが止められない。
(……いっそ、本当に意識を手放してしまった方が楽かなぁ……)
目を開けることもままならず、リーゼの意識はトロトロと微睡みに落ちていく。
だが――
「……だっ……ゼッ……リー、…………リーゼ……ッ!!!!」
それを引き留めるものが確かにあった。
自分を必死に呼ぶ声が聞こえた。熱のせいで朦朧としているからか、距離や方角は分からない。だけど確かに聞こえた。だから、リーゼは最後の魔力を振り絞る。
「――《小さき光よ……顕現し……我が周囲を照らせ》」
最も得意とする光属性の――本当に初歩の初歩。周囲を明るく照らす、暖かい太陽みたいな魔法。
それを出来るだけ広範囲に拡散させる。自分はここに居ると、気づいてと。
「――か!! おい、リーゼ!! いたら返事しろッッ!!!」
近づいてくる声に、リーゼの閉じたままの両目から涙が頬を伝った。
ああ、迎えに来てくれたのだ。自分に気づいてくれた。
「……せん、ぱい……っ! ……フェリクス、先輩……!!」
掠れてみっともない声だったが、それでも必死で叫んだ。もう光の魔法は消えてしまっている。魔力を完全に使い切ったのだ。だけど、それでも彼はちゃんとリーゼを見つけてくれた。
「リーゼ!!!!」
全身を何か温かいものが包み込む。
それがフェリクスの大きな身体だと分かって、心の底から安心した。
リーゼは抱きしめられたまま、すりっと彼の肩口に頬を寄せると今度こそ本当に意識を手放した。
だけどもう、怖いものなんて一つもなかった。