合同演習【4】
「……あ、あの……っ、リーゼ、さま……」
「んん……??」
自分を呼ぶささやかな声に、リーゼの意識は覚醒を余儀なくされた。うすぼんやりとした視界には、泣きそうな顔のヘルタの姿がある。
「……どうされました?」
「そ、その……お、お花を摘みに、いきたくなってしまって……っ」
申し訳なさそうにもじもじするヘルタに、リーゼは柔らかく笑って「分かりました」と静かに身体を起こす。左側ではパラッシュ侯爵令嬢が眠っているので起こさないように注意した。
そのままヘルタに目線だけで外へ出るように促す。彼女はびくびくしながらも、こっそりとテントを抜け出した。リーゼも軽く手櫛で髪を整えて表へと出る。季節的には夏に近いが夜ということもあり、空気自体はひんやりとしていた。
「……一応、火の番に声を掛けてから行きましょう」
「うっ……あ、あの……恥ずかしいので、男性には知られたくなくて……っ」
「大丈夫です。私がお花摘みに行くってことにしますので」
「あ、じゃ、じゃあっ……わたしが説明してきます……っ!」
慌てたようにテントの陰からひとり飛び出していったヘルタが、少し離れた場所で火の番をしている二回生の男子に駆け寄るとその耳元でコソコソと喋り出す。その数十秒後には彼が軽く頷いたのが見えた。
「説明して来ましたので、すぐに行きましょう……っ」
ヘルタはこちらに戻ってくると、そのままリーゼの横をすり抜けてさっさと森の中へと入っていく。
彼女の尿意を心配しつつリーゼは素直にその後をついて行った。そのまましばらく二人して無言で歩く。
しかし数分も歩けば十分だろうとリーゼは考え、適度なところでヘルタへと声を掛けた――が、何故か彼女はこちらの声を無視して足早に森の奥へ奥へと進んでいってしまう。
「ヘルタ様、あまり遠くに行くのは危険ですからこの辺りで――」
「万が一にでも音とか聞かれたら耐えられません! もっと距離を取らないと……っ!」
制止の言葉を投げるが彼女の歩みは一向に止まらない。仕方なくリーゼは彼女の背中をひたすら追う。この時点で何かがおかしいと薄々察していながらも、暗い森の中にか弱い同級生をひとり置き去りにするという選択肢がリーゼにはどうしても取れなかった。
夜の視界と寝起きのせいで時間と方向の感覚や判断力自体が鈍っている中、ようやくヘルタの足が止まる。彼女はくるりとリーゼの方に振り返ると、
「リーゼさまはこちらで少し待っていてください。恥ずかしいので絶対に近づいて来ないでくださいね」
と言って、こちらの返事を待たずに木の陰に姿を消した。
リーゼは森の木々が風に騒めく音を聞きながら、待つしかないかと肩を竦める。
(けど……今はどの辺りだろう? 野営地からは真っ直ぐに進んできたとは思うんだけど……)
何とはなしに周囲へぐるりと視線を巡らせようとした――まさにその瞬間だった。
「きゃああああ!!!!」
「!? ヘルタ様!!!」
リーゼの耳がヘルタの悲鳴を捉えた。
反射的に彼女が消えていった方角へと走り出す。幸いにもその姿はすぐに発見できた。
彼女は何かから逃げるようにどこかへと猛然と走っていく。昼の散策の際にも魔獣にあれだけ怯えていたヘルタだ。もしかしたら小型魔獣と接触してパニックになっているのかもしれない。
「ヘルタ様! 落ち着いて、止まってください!!」
声を上げるが成果はなく、追いつこうにも生い茂る木々のせいでなかなか距離は詰まらない。
(……こんなことなら、パラッシュ侯爵令嬢にも来て貰うべきだった……っ!)
己の判断ミスを悔やんでいた時、不意にヘルタの姿が木々の間に隠れてしまい、見失ってしまう。
「ヘルタ様! お願いですから返事をしてください!!」
一度野営地まで戻るべきか、それともここから魔法か何かで誰かに気づいて貰えるよう何かしらの合図を打つべきか。リーゼが立ち止まり僅かに思案しようとして……ようやく我に返る。
今はいったい森のどの地点なのだろうかと。
慌てて状況を把握しようと周囲を見回すと、数十メートル先に森の切れ目を発見する。
星明かりを頼りに、まずは場所の特定をと切れ目の方へと動き出したリーゼだったが、
「《小さき風よ、顕現し、対象を吹き飛ばせ》」
背後から微かに聞こえてきた声で咄嗟に振り返った――直後。
リーゼの身体は突如として発生した激しい突風の直撃を受け、後方に大きく吹き飛ばされた。
「ッ!? グゥッ……い、た……ッ……ッ!!!」
おそらく十数メートルは強制的に移動させられた。身体が止まったのは物理的に森の太い木にぶつかったからだ。木の幹に背中をしたたかに打ち付けた痛みで思わず呻き声が漏れる。
「っ……は、……な、にが……」
何が起きたのか、リーゼは衝撃に霞む視界の中で必死に体勢を立て直そうと腕を動かし、頭を上げようとした。しかしそうするより前に今度は横腹のあたりを強い衝撃が襲う。
「カハッ……!!」
蹴られた、と気づいた時にはゴロゴロと自分の身体が湿った地面を転がっていた。咄嗟に頭と蹴られた脇腹を手で庇う中で、頭上から楽し気な声が聞こえてくる。
「あはっ! 流石雑草、とってもしぶとぉい」
「……ヘ、ルタ、……さま……?」
「やぁだ、わたしの名前を呼ぶなんて本当に不敬なんですけどぉ! ていうか、生ごみが喋らないでくれますぅ? ――耳が汚れるのでッッ!!!」
「うぐっ!?!?」
呆然とするリーゼの背中を強く踏みつけながら、ヘルタ・ヒルシュが残忍に笑う声が森に木霊する。
一方のこちらは肺に掛かる圧力で言葉を紡ぐことはおろか呼吸もままならない。
「わたしはねぇ、お前みたいな平民があの人の傍に居るなんて絶対に許せないの。だからね? 今ここで死んでほしいんだぁ!」
可愛らしいおねだりをするような口調でヘルタが言う。一方、リーゼの全身からは完全に血の気が引いていた。先ほどの魔法といい、今の状況といい、彼女からは明確な殺意を感じる。以前令嬢達から囲まれた時の比ではない。
「《猛き風よ、我が意思に従い――」
ほどなくヘルタの口から詠唱が始まる。
「――その姿を変え、巨大な風の渦となり――」
彼女は最後にもう一度リーゼを蹴って転がすと、口もとを愉悦に歪ませながら魔法を完成させた。
「――我が敵を彼方へと吹き飛ばせ》」
瞬間、リーゼの身体が直系数メートルはある風の渦に呑み込まれるとあっという間に森の中から弾き飛ばされた。まるでこの葉のごとく空中へと投げ出された身体が、竜巻とも呼べる風の渦によって高く高く打ち上げられる。
一瞬、眼下に見えたのは崖。だがすぐに視界は風によって遮られ、轟音により眩暈と吐き気に襲われる。だがそれも数秒後には止み、今度は自分の身体が急速に落下を始めたのが分かった。
――このままでは死ぬ。
そう感じた瞬間、リーゼは途切れそうになる意識を必死で繋ぎ止めて魔法を発動させていた。
(死んで……堪るもんですか……っ)
そうして理不尽に抗うリーゼが最後に知覚したのは――自分を守る水の膜の感触と、それとは別の激しい着水音だった。