勉強会3日目
試験前日――つまりジークヴァルトとの勉強会最終日である。
「なあ、お前さえ良ければ今日は俺の家でやらないか?」
ジークヴァルトの提案にリーゼは目を瞬かせた。だがすぐに思い直す。教室内は人の出入りが当然自由なので、予期せぬ邪魔が入る。特に昨日の一件を思えば、彼が場所を変えたいと考えるのは当然だろう。
「……今更だけど、ジークって婚約者とか恋人いないよね?」
「は? いないけど」
「ならまぁ、大丈夫なのかな……」
「何が?」
「いや、私は平民だから。学院内はともかく外で一緒に行動するとジークが何か言われないかなって。特にご家族とか」
家族、という言葉に反応してジークヴァルトの表情が僅かに揺らいだ気がした。
「……それこそ今更だろ。いいから行くぞ、時間が惜しい」
「あ、うん」
そうしてシュトレーメル家の馬車に揺られること数十分。
リーゼはジークヴァルトの暮らす屋敷に招かれた。初めての貴族の屋敷ということで緊張が拭えないリーゼをジークヴァルトが目を細めて促す。
「そんな大層なもんじゃねぇよ。ここは俺しか住んでねぇし使用人も通いの者だけだから楽にしてくれ」
「え、この屋敷にジーク一人で住んでるの? ご家族は?」
「俺以外の連中は基本的に領地。だから本当に気を遣わないでくれ」
ジークヴァルトは話を打ち切るように屋敷内を進む。その背中を追いながら、リーゼはジークヴァルトの家族関係は思っていたよりも複雑なのかもしれないと考えた。
気にならないと言えば嘘になるが他人の事情を徒に暴く趣味はない。これ以上余計な詮索はするまいとリーゼはひっそり心に決めた。
通された部屋はどうやら来客用の応接室のようだった。日当たりのよい室内の窓は開いており、カーテンが風に煽られて柔らかく揺れている。落ち着いた色合いの調度品も相まって居心地の良い部屋だった。
部屋の中央にあるローテーブルとソファーのセットまで移動し、さっそく勉強を開始しようと準備を進める。ただ向かい合って座ると距離がありすぎるため必然的にソファーに横並びで座ることとなった。
しかしこれがかなり近い。
「……なんでそんな緊張してんだよ」
「べ、別に! 緊張してないよ! ちっとも!!」
「……」
「な、なんでさらに距離詰めてくるの!?」
「なんとなく」
「なんとなく!?」
どこか楽し気なジークヴァルトに翻弄されながらも、なんとか落ち着こうとリーゼは話題を無理やり切り替える。
「内容は昨日と同じ古代魔術理論でいい? それとも他の科目にする?」
「古代魔術理論で頼む。一応、自分でも昨日やってたんだが――」
そう言って、ジークヴァルトは鞄からノートを取り出すとリーゼに見せてくる。
確認すると試験範囲をまんべんなく勉強していることが分かったが、その上で魔術陣の応用構築における古語の使用問題に苦戦した様子がはっきりと残っていた。
それでも全体の七割方は正解しているので、リーゼは少しだけ驚きながら顔を上げる。
「いくつかミスしてるところもあるけど、かなり出来てると思うよ。これなら平均点以上は取れると思う」
「なら良かった。だけど引っ掛かってる部分も結構あるんだよな……例えばこことか」
ノートを指差しながらジークヴァルトが淡々と疑問点を訊いてくるのに、リーゼはひとつひとつ丁寧に答えていく。正直、試験で及第点を取ることが目的ならば十分すぎる理解度である。だが彼は思いのほか貪欲に学ぶ姿勢を崩さなかった。
「……古代魔術理論、興味なかったんじゃなかったの?」
質問が一段落したところで思わず問えば、ジークヴァルトはソファーに深く座り直した。
「まぁそうなんだが。少しだけ興味が湧いた」
「へぇ、どんなところが? やっぱり浪漫があるところ?」
「お前が楽しそうに話すから」
「……うん?」
「ちゃんと勉強すればお前と同じもんが見えるかなと思っただけだ。確かに現代魔法に通じる箇所なんかを見つけると、割と面白いなとは思う」
さらっと言われて、リーゼは反応に困った。自分の言動が彼の学習意欲を向上させたのはいい。だが、言うことがいちいち意味深なのだ。大変面映ゆい。
クラスでのジークヴァルトは基本的に寡黙で無表情だ。人から話しかけられても淡々としているし、あまり友好的な態度とは言い難い。しかし今リーゼの目に映るジークヴァルトの雰囲気は柔らかく優しい。きっとそれは少なからずこちらに心を許してくれているからだろうけれど。
(普段からこんな風なら、さぞかしモテるだろうに……)
伯爵令息という肩書に圧倒的な魔法の技量。おまけに男らしく精悍な顔立ちは好みの差こそあれ、フェリクスと並んでも決して見劣りしない。
(きっとそう遠くないうちにジークにも婚約者とか出来るんだろうな)
そう考えるとこの友人関係もいつまで続けられるか分からない。そのことを酷く寂しいと感じるくらいには、リーゼの中でジークヴァルトの存在は確実に大きくなっていた。しかし同時にリーゼは現実を知っている。気持ちだけではどうにもならないことが世の中にはいくらでもあることを。
彼は貴族で自分は平民。そのことを忘れてはならない。
(……せめて学院にいる間くらいは、この関係が続くと良いな)
胸に湧くほろ苦い気持ちを隠しながらリーゼはジークヴァルトに微笑む。
「いつもジークには助けて貰ってばかりだから。もし私の何かがジークの役に少しでも立ってるなら、とても嬉しいよ」
それは紛れもない本心だった。
しかしジークヴァルトはリーゼの言葉に怪訝な顔をする。
「役に立つとか立たないとか、そういうのはどうでもいい。お前の隣は居心地がいい。だから一緒にいる。それで十分だろ」
「……そっか」
とても贅沢だな、とリーゼは少しだけ泣きたい気持ちになった。平民である自分は常に結果を求められる立場だ。それなのに、この人はただリーゼが隣に居るだけで良いと言う。
(なら私は……ジークの隣に居て恥ずかしくない私でいよう)
リーゼが改めてそんな決意を固めていると、扉をノックする音があった。ジークヴァルトの返事で顔を覗かせてきたのは通いの家政婦だという年配の女性である。彼女は手際よくお茶を用意した後に、ジークヴァルトへ尋ねた。
「お夕食ですが、そちらのお嬢様の分もご用意する形でよろしいでしょうか?」
「ああ、頼む。リーゼは何か食えないものとかあるか?」
「なんでも美味しく食べられるけど……いいの? お夕食ご馳走になっちゃっても」
「お前が迷惑でなければ食ってけ。味は保証する」
「……なら、お言葉に甘えるね」
お誘いが嬉しくて自然と笑みを浮かべれば、ジークヴァルトもどこか満足げに表情を崩す。
「あらあら、坊ちゃんが笑うのは珍しいですわねぇ」
「……坊ちゃん呼びはやめてくれ」
それから夕食までの間、二人して真面目に試験勉強に励み。
ご褒美といわんばかりに饗された夕食を美味しくいただいたリーゼは、ジークヴァルトの手配した馬車で自宅への帰路についたのだった。