迎合するひとと反抗するひと
二人の人物が登場するとします。
一人はみんなに気に入られることが大好きで、そのため自分のやりたいことを我慢してでもみんなが望むことをします。
歌を歌うにしても誰もが知っている歌を、みんなのイメージ通りに歌って、みんなが喜んでくれるのを見るのを何よりの幸せとします。
自分のほんとうに歌いたい歌は、あるけど歌わなかったり、そもそもなかったりします。
もう一人は自分の信じる通りにやることが大好きで、そのため誰からも認められなくても自分の道を突き進みます。
歌を歌うにしても、たとえ誰も知らなくても自分のほんとうに好きな歌を、自分の歌い方で歌って、一人でも『いいね』と言ってくれることを幸せと感じ、出来るなら自分の歌で多くの人が喜んでくれれば至上の喜びと感じるでしょう。
流行りの歌は歌わなかったり、それを『くだらないもの』と見下していたりします。
どちらの人のほうが立派なのでしょうか?
私は長いこと、後者のほうが立派なのだと思っていました。
例に挙げたほど極端でなくても、みんなと違うものを見て、みんなと違うことを考えている人こそ『新しい何か』を創造できるのだと信じていました。
前者を『迎合するひと』と馬鹿にし、後者は『反抗するひと』あるいは『創造するひと』なのだと崇め奉っていました。
今は違います。
二重鉤括弧の中のカテゴライズした言葉はそのまんまその通りに思いますが、どちらが立派かなんてことを考えなくなりました。
だって両者は『優劣』じゃなくて、単なる『違い』でしょう?
人にはそれぞれ自分に合ったタイプというものがあります。
迎合するひとはみんなが求めているものがわかってて、それを提供することが出来る凄いひと。
その代わり同じようなことをしているひとは多いので、突出するのはかなり難しい。
反抗するひとは新しいものをみんなに提供出来て、びっくりさせられる凄いひと。
その代わりみんなにわかってもらえにくいので、世に出るのはかなり難しい。
迎合するひとが反抗したって、結局みんなと同じ意味での反抗しか出来ないから、なんちゃって反抗にしかならない。
反抗するひとが迎合したって、みんなが求めているものがじつはわからなかったりするから、滑ることにしかならない。
実際にはこんなにスパッとは分かれてなくて、『どちらかに傾いてる』みたいなバランスの話だとは思いますが、でもどちらかにはどうしても傾いてる。
自分のタイプをしっかり知って、自分に合わないことはサッサと諦めて、自分らしいことをすればいいと思うようになりました。
反対のタイプのことは馬鹿にしたりしないで、いいところがあれば取り入れて、でもあくまでも自分に合ったやり方をして行くしかない。
私はみんなの求めているものがわからないほうです。
そういう能力のあるひとのことを羨ましいと思います。
でも、たぶん、どっちかしかひとは持てないんだ。