#9 交換条件が懈い
黙して座る夕凪を見遣る。
夕凪美佳と名乗った女子高生は、天然と呼ばれる特徴を都度覗かせてはいるものの、不思議ちゃんと呼ばれるほど酷いわけじゃない。
我が部署にいるお騒がせ担当・三越莉子のように、何かにつけてワーワーギャーギャー騒ぐタイプじゃないと理解した。
「おにいさんの自己紹介待ちなんですけど」
「え? ああ、そうだったっけ」
「わたしに教えたくないなら『たーくん』って呼ぶまでです」
「たーくんはやめろ。……なんでそのあだ名を知ってる?」
夕凪に、たーくん、と名乗った覚えはない。
この歳になって『たーくんです』と自己紹介していたら、さすがに気持ち悪いだろう。というか、俺だったら引く。ドン引きだ。一周回った後にもう一周回ってやっぱりドン引きする。
「さっきまでいた女の人がそう呼んでたので」
聞いてたのかよ、どんだけ耳がいいんだ。
「それでも、たーくん言うな。俺の名前は滝宮天馬だからな? 断じて〝たーくん〟ではないからな?」
なんちゃらかーんな、と続けそうになってぐっと堪えた。
二十八歳のおっさんがそんなことやっていたらぶん殴りたくなる。
だからおっさんじゃねーよ。
「じゃあ、たーさん?」
「どうしてそうなる」
あだ名がジャングルの王者みたいになった。……そうじゃなくて。
「普通に『滝宮さん』でいいだろ」
「滝宮産」
その発音だと産地みたいになっちゃってるからな?
イキのいい滝宮産の秋刀魚が入荷したよ! 目が死んでるけど体脂肪はそこそこ乗ってるよ! さあさあ買った買った! と、声を張り上げても見つけてもらえない三十路手前の俺、超可哀想だよね? 貰われるスタンスだからいけないんだよなぁ……。
「た、き、み、や、さ、ん、だ」
『たき』は上げて、『みや』を下げるのが一般的な発音だ。
「わたしのことは美佳って呼んでください」
スルーかよ。
気に入っているのは名字なのに、呼ばれるのは名前がいいのか。
女子高生よくわからん。
「いや、さすがにそれは」
「美佳って呼んでって」
言いました、と言われる前に、
「あー、わかったわかった。お望みどおりに呼ぶから」
名刺交換のない自己紹介ってこんなにも難しかっただろうか? 子どもの頃はもっとスムーズにできていた気がしなくもない。
名刺を交換する儀式は面倒だけれど、『自分はこういう者です』と紙切れ一枚で済ませられるのは楽でもある。——なるほど、どうやら名刺に頼りきっていたみたいだ。
取り敢えず基礎から始めてみよう。な、ないすとぅーみーちゅー?
「……じゃあ、その、美佳」
改まって女子を下の名前で呼ぶとなると、背中がむずむずしてくる。
馴れ馴れしくするのは良くないのだが、美佳は薄っすらと口角を上げて嬉しそうに微笑んだ。
その横顔は秋桜の花がふわりと揺れるような優しい笑顔だった。
秋が似合う子だな、と、それでいて不思議な雰囲気を纏う子だな、とも思った。
一回りも違う相手になんて感想を抱いているんだ俺は。
「兎に角、俺は会社に戻るから、美佳も早く家に帰れ。いいな?」
そう言って立ち上がった俺のワイシャツを、美佳が再び掴む。だからな? 横っ腹の肉まで持っていくのはやめろ? またしても「ぐふぅっ」って変な声が出ちゃっただろ。
しかつめらしい顔で、「まだ何かあるのか?」訊ねる。
美佳は小声で「どうして?」と呟いた。
「なにが?」
「学校にいけとは言わないんですか」
茶色がかった綺麗な瞳が、俺の眼をじいと見つめる。
時が止まったような錯覚に陥って、思わず息を呑んだ。
魅惑的な双眸に見つめられると、どうしてか身体を動かすのを躊躇ってしまう。芸術的な絵画や彫刻に触れて、瞬きさえも惜しむような、一秒でも長く眺めていたい感覚に近しい。
ギリシャ神話にそんな能力を持った魔女がいたっけな。目を見ると石像にされるやつ。
その魔女は己が持つ特性を利用されて英雄に首を撥ねられていたが、それでも見たいと思えるほどに、魔女の瞳は魅力的だったのかもしれない。
コホン——、態とらしく咳払いをして、
「学校にいけてたら、今頃は昼飯を友だちと食べてるだろ」
「…………」
それらしいことを言ってみると、美佳は何も答えずに唇を噛んだ。
学生が抱える悩みの八割は、自らを取り巻く人間関係に由来している。残りの二割は勉強と、先の見えない未来について。
表情から察するに、美佳は、人間関係について悩んでいると推論を立てた。
学校に行かないという心理は三つある。
一つは、単純に面倒臭いから。
仮病を使ってサボるのは、誰しも経験があるだろう。
もう一つは、学校よりも楽しいことが外部にあるから。
趣味に没頭する余り、学校への興味が薄れたりする。
最後の一つは、悪意からの逃避行動。——いじめだ。
しかし、陰湿めく影の痕跡は見当たらない。
最後の一つは正解ではないのだろう。
人間関係ではない、他の理由がある。
「今日はたまたま、天気が良かったから」
「そんな理由でオフィス街を選ぶとは、珍しいお嬢さんだな」
「行こうと思えば行けます……学校なんて」
それができないから社内恋愛族公園にいるのだろう。
「まさか、朝からずっと公園にいたのか?」
「…………」
図星らしい。
「ま、美佳が学校に行こうが行くまいが、俺には関係ないけどな」
「わたしが学校に行かなかったのは、たー……きみやさんのせいです」
「はあっ!?」
「滝宮さんのせいって、言いました」
またそれか。
益々女子高生がわからなくなった。
「なんでも他人のせいにするな」
「人間は生きているだけで他人を傷つけるって聞きました」
「そんなことを言ってるヤツは、自分の愚かさを肯定したいだけの卑怯者だ。悟ったふりをして、達観している自分を演じて……」
言い訳して、嘘を吐いて、自分は悪くないと大声で喚き、共感した者たちと傷を舐め合う——なにこれ、社会人のスローガン? ぴんと来すぎて嫌になる。
どうして大人はこうも見栄っ張りなのかしら? と、性別不詳の濁声を脳内再生していたら、喋っている最中に閉口した俺の脇腹を美佳が右手の人差し指でツンツン二回小突いた。
「どうしたんですか、おおたいさん?」
い〜い薬です! じゃねえよ。
「それは胃薬の名前だ。というか、わざと間違えただろ。滝宮の『た』しか合ってねえし」
「口を滑らせただけです」
やっぱりわざとじゃねーか。
「兎に角、その格好で出歩けば、警察を呼ばれて補導されるのがオチだぞ」
「漫画喫茶に行けば」
「やめとけやめとけ、結果は変わらん」
昔、ノリで高校をサボりって友人たちとゲーセンに行ったことがある。今頃はクラスの連中が退屈な授業を受けているんだ、と思うとテンションが上がり、欲求を満たすように騒いだ。
だが、楽しい時間は直ぐに終わることとなる。
制服姿の俺たちを見て不可解に思った店長が、警察を呼び、警察が母親と担任を呼んで、「馬鹿な真似をするんじゃない」とゲーセンのバックヤードでしこたま怒られた。
そして、担任の車に乗り込み学校に着くと、今度は生徒指導室で反省文を書かされた。——苦い経験だ。
「制服がいけないのなら、服を買います」
だから、そういう問題じゃないだろって。
「この時間に子どもが出歩いてるのが問題なんだ。わかるか?」
「……わかりました。じゃあ、交換条件で」
「交換条件?」
話の流れの何処に交換条件を提示される節があった?
もしかして、俺と美佳の間に次元の歪みが生じている?
「わたしが家に帰る条件として、滝宮さんの連絡先を教えてください」
…………はあ?
【修正報告】
・報告無し。