#8 手も足も出なくて懈い
久しぶりに見た由佳は、別人が成り代わっているといっても大袈裟ではないほどに変貌していた。
声を聞くまで由佳だと気づかなかったほどだ。
思わず「驚いたな」と、声が口を衝いて出ていた。
由佳はさも当然かのように、「当たり前でしょう?」と言った。
綺麗になった、というよりも、派手さに磨きが掛かっている。
出会った当初からブランド趣向だった由佳だが、まさか全身ブランドに身を包んでくるとは。
ホストクラブに出入りする女って雰囲気が、服と化粧と装飾品に色濃く出ている。
「付き合う相手が変わると化けるものなんだな」
皮肉を言ったわけじゃない。
純粋に、そう思っただけだ。
そんな俺の性格を知ってか知らずか、由佳は嫌味に受け取られてもおかしくない言葉を鼻で笑って一蹴する。
「それが女って生き物よ」と由佳に言われて、はっとさせられた。
なるほど、そのとおりだ。
由佳以前に付き合っていた女性たちも、俺と付き合うようになって身なりを整えるようになった。
いいや、多分、そうじゃないのだ。
歴代の彼女たちは、俺と付き合う前から小綺麗にしていたけれど、彼氏ができたことによって自信が持てるようになったのだろう。
『女は恋をすると綺麗になる』の真髄は、心の余裕から生まれた客観性に元ずく自己表現と自己肯定の確立、なのかもしれない。何を言ってるのかよくわかんねえな。
俺はブレンド、美佳はカフェラテを注文し、運ばれてきたコーヒーに舌鼓を打ちながら本題に入る。
コーヒーを待つ間に、別れましょうの下りは終えた。
別に今更それを伝えたところでお互いに別の人生を歩み始めていたし、改まる必要もなかったのだが、俺も、由佳も、けじめを付けたかったんだと思う。
「ホストとは上手くやってるのか」
「その呼び方はやめてくれる? 彼には——って名前があるんだから」
ホストのにいちゃんの名前を覚える気は更々なかったので、適当に流していた。
それでもホストの彼氏を自慢したい由佳の口は、自動小銃のように止まらない。
我慢して話を聞いたところによると、その男はホストなのに真面目で、勤勉で、努力家でもあり、由佳と付き合うと決めた日にホストクラブの店長に話をつけ、翌日から就職活動をしつつホストクラブで働き、再就職が決まったらすぱっとホストクラブを辞め、一般職に就いたという。
「凄いな」
ここまで潔くされてしまうと、俺に勝ち目がないのは明白だった。男としても負けている。
漢気のあるにいちゃんだ。
二つ年下なのに、全てにおいて敗北を決していた。
稀に見る絵に書いたような完敗に、コーヒーで乾杯——笑えねぇ。
「そのにいちゃんは、由佳のどこに惹かれたんだ?」
実際問題、由佳の魅力は付き合っていた俺にもよくわからないものだった。
下衆な男のように評価するならば、いい女、であることに変わりはないのだろう。
由佳もまた、自分磨きに余念がない。
体型を維持するためにスポーツジムに通っていたり、ヨガ教室に赴いたり、動画サイトにアップされたメイク動画を見ては研鑽を重ねていたのを、俺は知っていた。
俺を捨ててホストクラブに転がり込んだだけのクソ女であれば怒りも込み上げてくるのだが、努力を怠らずに邁進し続けてきた由佳に俺がどうこう言う隙はなく、努力してきた事実を知っているからこそ、そこだけは尊敬の念を抱いている。
「さぁ? そんなの気にしたこともないわ」
由佳は、自分を棚に上げて高笑いするような高飛車な性格ではない。
傲慢さは否めないし、強引で、意地っ張りなところもある。だが、それらは全て努力によって培ったものだ。
言うなれば、主人公をいびり倒す悪役令嬢が、口先だけでなく、周囲を認めさせるだけの実力を兼ね備えているようなもので、『このわたくしに歯向かおうだなんて百年早いですわ』が事実そのとおりだと認めざるを得ない。
無敵じゃねえか。
こんな悪役令嬢がいたら、主人公も惚れちまうだろう。
「それでも強いて挙げるなら、男を落とすなら床でって、昔から言うでしょう?」
「普通は胃袋で掴むもんだろ」
「そういうけど、ハルだってその一人じゃない」
返す言葉もない。
俺と由佳が付き合うきっかけになったのもまた、ベッドの上だったのだから。
「ま、彼はハルよりも上手いけどね」
「左様ですか」
百戦錬磨のプロと比べられたら敵わないな、と肩を竦めた。
コーヒーの温度がほどよく冷めた頃、店内に流れていたジャズがゆったりした曲に変わった。
この曲は知っている。
何せ、誰しもが一度は聴いたことがある名曲中の名曲だ。
古い映画で使われていた曲で、世紀の大女優が窓辺でギターを弾きながら歌うシーンに観客はさぞうっとりしたことだろう。
この店のマスターの選曲は、一々ツボを突いてくる。
ただ有名な曲を垂れ流しているそこら辺の喫茶店とは違って客に合わせているような、それでいて遊び心に溢れていた。
もし、俺が通う学校がこの近辺にあったなら、毎日とは言わずとも足繁く通っていただろう。
そう思うと、壁際の席に座る高校生四人組が羨ましくて堪らない。
子どもの頃からこんな店に通えるなんていいご身分だ。
はぁ、と、ブレンドを飲んで息を吐いた。
俺がカップを皿に置いたのを見届けて、由佳は口を開いた。
「うち、あの人と結婚するから。これ、招待状ね」
すっと差し出された結婚式の招待状を見て、「正気か?」と目を疑ったが、由佳は最初から結婚の報告をするつもりでこの店に呼び出したのだろう。
だとしても、元カレに結婚式の招待状を送りつけるなんて、正気の沙汰とは思えないのだが。
「返事は今じゃなくていいわ。どこでもいいからポストに投函して」
別れ話が終わった直後に結婚式の招待状を送ってくるなんてどうかしてるだろ。
と、その場で破り捨ててやろうとしたが、こういった状況に陥っても俺の脳は正常な判断を下すらしい。
由佳がカフェラテを半分ほど残して退店した後、気がつけばマスターからボールペンを借りて、招待状の『欠席』の文字の上に『寿』を上書きし、駅前にあるポストに投函していた。
俺は、由佳とは結婚できない、と心の何処かで思っていた。
だから、由佳を奪った男を恨んではいるけれど憎んではいない。
それどころか、結婚の話を聞いて、ほんの少しだけほっとしていた。ようやく終わったんだな、と。
喫茶店から出る前に、「もしよろしければ食べて下さい」と店主に手渡されたクッキーは、女子力高めでどうしようもなく美味かったが、もうあの店に行くことはないのだろう。
コーヒーもクッキーも最高だったのに、残念だ。
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・2021年10月6日……本文の微調整。