#7 元カノが懈い
女子高生は腕を組むのをやめて、物憂げな表情をしながら両手でスカートをぎゅっと握った。膝上まであったスカートの裾が短くなり、もっちりした太もも部分が露出している。
すべすべなもち肌がちらと見えて、リアクションこそ取らなかったものの、はらはらしてしまった。
どうして女子の制服はスカート限定なのだろうか。
目のやり場に困る。
思考が完全感覚おじさんじゃねえか。
だからおじさんじゃねえよ。
「おじさんは」
「お、に、い、さ、ん、な?」
間髪入れずに指摘した。
油断すると呼称が『おじさん』になってしまう。それだけは断固として避けたい。
四捨五入すれば三十代に突入してしまうけれど、ぎりぎり二十代の俺は、おじさんと呼ばれるわけにはいかないのだ。
自分をおじさんと認めてしまえば、瞬く間に老け込む自信がある。
味覚は既におじさんに侵食されつつあった。スルメは軽く炙ると旨いって知ってしまったのだ。
スーパーマーケットの海鮮コーナーにある姿干しのイカは、干物コーナーにある物よりも心做しか美味い気がする。多分、気のせいだろうけど。
「おにいさんは、わたしを見てどう思いますか? 欲情しますか?」
「はあ?」
急すぎる展開に、おにいさんも吃驚だ。
若さは武器になるとはいえ、女子高生を性的な目で見るのは世間が許しちゃくれませんよって——しかし、昨今は『パパ活』という言葉をよく目にする。
日常の呟きを投稿する某SNSで調べると、『パパ活女子』なるハッシュタグを付けた『おぢ募集』のつぶやきを目にすることができるのだが、これがどうもきな臭い内容なのだ。
「俺をパパ活に誘っても無駄だぞ」
「そんなことはしません」
その言葉を聞いて安堵したけれど、女子高生は腑に落ちない顔を俺に向けた。
「でも、大人って女子高生に魅力を感じるものではないんですか?」
不思議そうに、少女は首を傾げる。
女子高生の肩書きを信頼しすぎだろ。
「大人が全員、女子高生に欲情すると思ってるなら自意識過剰だ」
とはいえ、俺だって男だ。
女子高生という言葉の響きにどきりとしないわけではない。
どきりとはするけれど、性の対象にしてしまうのは大問題だ。その一線だけは絶対に越えるな——と、もう一人の俺が自制させる。
「それにな、今日初めて会った他人に『欲情しますか』って質問を投げかけるのって常識的におかしいだろ」
「極めて一般的な質問です」
そんな極めて一般的があって堪るものか。
「おにいさんは初対面って言うけど、わたしは、おにいさんを知ってます。今日も会いました。だから、初めてじゃないです」
いやいや、と頭を振る。
「どんな理屈だよ、とんでもねえ女子高生だな。知り合うっていうのは、お互いに認知して挨拶をしてからが基本だ。刹那的な出会いは、出会いって呼ばない」
なぜ、見知らぬ女子高生相手に説教をしているのだろう。頭が痛くなってくる。
この子は天然なんだろうか? 俺の常識が全く通用しない。
自分の価値観や世界観を持っている人間は存在する。三越も割とそっちの分類だが、ここまで酷いのは初めてだ。
——ちょっと待て。
「初めてじゃないって言ったな?」
「はい。初めてじゃないって、言いました」
「てことは、何度も俺を目撃してるのか?」
「いつも懈そうに、吊革に摑まってますよね」
なんだコイツ……、なんなんだコイツ!?
「もしかして俺のストーカーとか?」
「それこそ自意識過剰だって思いますけど」
ずばりと切り捨てられてしまった。……いや、まあ、そうだよな。
「毎日ように同じ時刻の電車に乗っていれば、嫌でも顔を覚えるじゃないですか」
確かに。
「俺も昔は勝手にあだ名とか付けてたわ」
学生時代は暇だったからなと付け足すと、
「それはさすがにしません」
見事なまでにドン引きしていた。
* * *
存在理由を問われたところから始まった女子高生との交流も、ここらで切り上げねばならない。
時間を共有しているように見えたとて、自由と不自由では進み方も変わる。
少女の時計には秒針が存在しないのに対し、俺の時計は秒針が所有者を急かすようにして、こちこちと動いているのだ。
そんなことを考えてしまうのは、多分、少女が持つ自由が羨ましかったのかもしれない。
朝、満員電車に駆け込むポニーテールを、大空を駆ける翼か何かと見間違えて、羨望の眼差しを向けていたようだ。
だからこそ、路傍の人であったはずの彼女の姿を鮮明に記憶していたのだろう。
戯言に聞こえるだろうか。
いい歳した大人が赤裸々なポエムなど似合わないことはするなと笑われそうだが、それでも、女子高生の姿が俺の目に焼き付いて離れなかった。
何でだろうな、つくづく思う。
女性と会話らしい会話をしたのは、随分と久しく感じた。
女子高生を『女性』と表現するにはまだ早計だが、同じ職場にいる女性以外とこうして語り合ったのは、とてつもなく久しい——大学以来だったか?
記憶を巡らせては、そんなはずないだろう、と頭を振る。
「どうかしたんですか?」
前触れもなく頭を振れば、疑問に思うのも無理はない。
しかしながら、この子は座る姿勢はとても綺麗だ。
ベンチの背凭れに背中を預けることなく、ピンと背筋を張っている。
茶道などの日本的な文化を習っていそうな居住まいに感心して、返答が少し遅れてしまった。
「あ、いや、何でもない」
そんな態度を取ってしまっては、訝るように俺を見るのも当然か。どうにか上手く誤魔化したいところだけれど、如何な言葉が見つからない。
「それよりも」
強引に話題を切る。
「そろそろ昼休憩も終わる時間だし、会社に戻らないと。——えっと」
隣に座る女子高生に目を向けて、口が止まった。
自己紹介がまだだった。
気心知れた仲であれば、遠慮せずに『お前』という他称を使えたが、初めて会った相手には失礼だろう。それが年下であっても。
言い淀む姿を見て、唐突に、何の脈絡もなく、俺の眉を読んだかのように、「夕凪美佳」と女子高生は名乗った。
「え?」
「夕凪美佳って、言いました」
「お、おう。そうか……いい、名前だな」
「わたしも気に入ってます。夕凪って名字」
そっちかよ。
キラキラネームが流行る昨今で、『美佳』という名前は古風で珍しい。何なら、俺の名前のほうがキラキラしている。普通は逆じゃないか? つい苦笑を浮かべた。
美佳、と、声には出さずに口の中で呟いてみた。
元カノの名前と一文字違いなのは、果たしてどんな因縁だろう。
* * *
元カノの名は『由佳』という。
美人とはいえないけれど、ブサイクではない。
頑張って化粧を凝れば、何とかって名前の有名な女優さんに似ている。
性格はちょっとキツめで、自分の意見を言わなければ気が済まないタイプ。
どうして由佳と付き合ったのか、明確には覚えていない。
告白されたのか、それとも告白したのか曖昧なまま、ぬるりと付き合っていたように思う。
流れに流されてしまうのも俺の短所——つまり、そういうことだ。
結婚する前は『大貫』だったが、結婚した今は『大澤』の性を名乗っている。
俺がコイツと結婚したら『滝宮由佳』になるんだな、とか考えていたけれど、その妄想が叶うことはついになかった。
結婚、か。
相手がいない俺にとっては無縁な言葉でしかない。
大学に入学した当時の俺は、暇を潰す目的で適当なサークルに入り、歓迎式という名目の飲み会を終えた夜、なんやかんやあった勢いで由佳と付き合う運びとなり、三年生になった春に同棲を始めた。
大学を卒業してからも同棲を続けていたけれど、社会に出て戸惑ってばかりだった俺は、由佳とすれ違いの生活を余儀なくされた。
慣れない仕事に悪戦苦闘し、疲弊しきった心身を寝て回復させる毎日。
誕生日や記念日を気に掛ける余裕はなく、デートもすっぽかし、「たまにはいいでしょう?」と夜の営みに誘われても気力が出ないわけで——由佳がホストクラブに通い始めたのもこの頃だったという。
女性の扱いに長けた『ホスト』にドハマりした由佳は、お気に入りだったホストクラブの人気ナンバースリーと意気投合。その結果、俺は振られた。
別れ話の日。
埼玉県にある不思議な内装をした喫茶店に、俺は呼び出された。
ホストのにいちゃんもいるならば、苦言の一つや二つ吐いてやろうと思っていたのに、来たのは由佳だけだった。
「ハルと違って忙しいのよ」らしい。
どうしてこんな遠くまで足を運ばなければならないのか疑問だったが、店内を見て「なるほど」と納得した。
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・2021年10月6日……本文の微調整。