#6 アイデンティティクライシスが懈い
カップルばかりの公園で一人になってしまった。
三越を怒らせてしまったのは、申し訳なかったと反省はしている。でも、どうせ会社に戻ったらけろっとしているんだろ? と思う自分もいて、心は落ち着き払っていた。
客観的に見ているとか、そういうものではない。
達観もしてないし、傍観しているわけでもない。
ただ『怒らせてしまった事実』と『業務に支障はない』という感情が入り混じって漠然としている感じで、いつの間にか両隣のベンチが空いていることにさえ気づかないでいた。
「鈍感なラノベ主人公ねぇ……」
言い得て妙だが、俺は主人公などではない。
自分の人生であるにも拘らず断言できてしまうのだがら、俺のモブ感は相当なものだ。
そもそも、自分の人生なんてものが存在するのかが怪しい。
『自分の人生なんだから好き勝手生きたっていい』と、誰かが言っていたのか、漫画やアニメ、それともドラマでの台詞かは記憶が朧げだけれど、自分の人生を好き勝手生きれる人間がこの世界にどれだけいるだろうか。
それこそ、小市民たる我々の更に上、巷でよく耳にする『上級国民』様にしかできない生き方なのではないか? と。
自由な生き方をするには金が必要だ。昼飯代を五百円で済ませている俺なんかでは、自由に生きるなど夢のまた夢である。
「世知辛い世の中だ」
ぼやきつつ、三越が置いていったゴミたちをコンビニ袋に纏めて、ぎゅっと固結びにした。
ひと塊りになったゴミと相席しながら、ワイシャツの胸ポケットに入れてある煙草とオイルライターを取り出す。
吸い始めた頃はメンソールタイプを好んで吸っていたが、数ヶ月吸い続けてメンソールの苦味が嫌になり、普通の煙草に切り替えた。
煙草の箱の頭を、とんとん、と叩いて一本だけを取り出し、手に馴染んだオイルライターの蓋を右手の親指の外側で弾くように開くと、キン——、甲高い音が鳴った。
会社に受かった時に、プレゼントしてもらったライターは、元カノからの祝い品だ。別れた彼女から貰ったプレゼントを未だに持ち歩くなんて、未練がましいと思われても致し方ない。
一度は捨てて、新しい物を買おうともしたが、勿体ない精神で使い続けているうちに愛着が湧いて、そのまま使い続けている——安い煙草ですまんな、と思いながらも煙草に火をつけた。
見渡す限りカップルだらけの公園で、煙と一緒に毒を吐く。ぷかー。コイツら全員、箪笥の角に足の小指をぶつけて悶絶すればいい。ぷかー。
吐き出した煙は宙を漂い、生暖かい風に流され霧散した。見上げた空は雲一つなく、嫌になるくらい蒼い。
俺の中の虚無感が、いい感じに仕事をしている。今なら悟りを開けそうだ。開けそうではあるけれど、開いたところでどうともならない。現実はそう甘くはないのである。
気懈げに煙草を飲んでいると、どこかで見たような金色のポニーテールが目に留まった。
直近の記憶を辿ってみる。
そういえば、満員電車に駆け込んだポニーテールにそっくりだ——というか、制服もそのまんまだ。
女子高生は、俺に背をむけるように、噴水を囲う白灰色のブロックに腰をかけている。
飛び散る水飛沫が彼女の髪を煌びやかに演出しているような幻想的な光景は鮮烈に俺の目を引き、堪らず息を呑んだ。
まるで、青春映画に入り込んでしまったような感覚だ。
俺が高校生であったなら、名も知らぬ女子高生に恋心を抱いても不思議ではない。
瞬きすら惜しむ眼前の風景は美しくも儚く、キャンバスがあれば一筆振るいたくなるし、上等なカメラがあれば写真に収めたいとも思う。
どちらの才能もない俺は、ただただ静かに唖然と見惚れるのが関の山なのだが。
背中で美を語るなんて、誰でもできることではない。
座っている姿勢が良いからだ。
背筋をぴんと伸ばしていて、凛々しささえも窺えた。
サァァ——、と吹き抜けた秋の風が吹き、長いポニーテールが右に靡いて、俺は現実に引き戻された。
目の前の景色に目を奪われて、どれだけ時間が経過しただろう。数秒だっかもしれないし、数分だったような気もする。ほんの一瞬の出来事だったが、とても長く感じられた。
余韻に浸って煙草を吹かしていると、ふとした疑問が浮かんだ。
今日は平日で、休日でもなければ祝日でもない。しかも、ここはオフィス街であり、学生がふらっと途中下車するほど楽しい場所でもないわけで……。
「どうしてこの時間に女子高生が外をうろうろしているんだろう」
と、思わず口に出してしまったのがまずかったようだ。
俺の呟きを耳にしたのかしてないのか、ポニーテール少女は、むすっとした顔をして近づいてきた。つか、耳よすぎねえ? さすがは女子高生。
若い子の耳は、大人が聞き取れない周波数の音も感知できるらしいしな。
公園などの公共施設で聞こえるらしいけれど、俺の耳には届かない。老化。嫌だねぇ。
目の前にやってきたポニーテール少女は、朝に見た制服を着用している。
見たことがない校章を左胸のポケット付近に付けている。フラットタイプ。いや、スラットタイプ。どこが、とは言わない。
言ってしまえばいよいよ気持ち悪いおっさんの仲間入りだ。それだけは願い下げである。
「ここ、禁煙です」
少女は火のついた煙草を指し、物静かな声で言った。
「あ、ああ。それは申し訳ない」
謝罪して、煙草を携帯灰皿の中に捨てる。
まさか女子高生に咎められるとは、情けない。
「…………」
「…………」
何だこの嫌な沈黙は。
煙草を注意するために俺のとこに来たんじゃないのか? それとも本当に俺の呟きが耳に届いたとでも?
ここからポニーテール女子が座っていた位置までは五メートル以上の距離があるってのに? 地獄耳にもほどがあるだろ。
そうは言っても全面的に俺が悪いので、何も言い返せないのだが。
* * *
煙草の臭いが霧散した頃合を見て、少女は重たい口を開いた。
「隣、いいですか」
「…………はい?」
という俺の目を見て、少女は先程よりも僅かに声を張ろうと息を吸い込んだ。
「隣いいですかって、聞きました」
「えーっと」
良いか悪いかでいえば、いい、のかもしれない。バスや電車で相席することもあるし、不自然ではない。
だけど、ここは公園であり、カップルが蔓延る噴水公園である。
その観点からすると、悪い。
世間体からも、常識からも、社会的なルールからも。
それら全部引っ括めて、悪い。
「俺はそろそろ会社に戻るから、どうぞごゆっくり」
早くこの場から離れたほうがいい、と脳内で警鐘が鳴り響いた。このまま見知らぬ女子高生と、ベンチに相席してはいけない。
急いで立ち上がろうとしたその時、少女が俺のワイシャツをぎゅっと握りしめた。ついでに脇腹も一緒に摘まれて、「うぐっ」と変な声が漏れてしまった。恥ずかしい。
「座ってください」
ええええ……。
露骨に嫌な顔をする俺。
動じないポニーテール少女。——女子高生は強い。
「座ってくださいって、言いました」
さっきからちょくちょく気になってはいたが、『要件+過去形』で締め括るのが彼女の口癖なのだろうかって、思いました。
「いいか? 俺、社会人、仕事ある。キミ、女子高生、社会的にまずい、オーケー?」
ヨー、ヨー、チェケラッチョ。
女子高生とどう接してよいものかわからず、ついド下手クソなラッパー風の片言になってしまった俺に、少女は何の感情も抱いてない様子で、じと俺を見つめ続ける。視線が痛い。
「とりあえず、座ってください」
「あ、はい」
座る直前に、ちらと腕時計で時間を確認した。
五分程度ならば問題ないだろう。
これ以上揉めても得はなさそうだ。
周囲の誰かに通報されかねない。
少女の用件はわからないが、ひとまず座ってみる。
さっきまでは居心地悪かったけれど、それに加えて人心地も悪くなってしまった。もっと言えば生きた心地もしない。世間体を気にしている俺を、罪悪感が襲う!
「……で、何の用があるの?」
「おじさん」
「おにいさん、な。俺はまだ二……」
暫し考えて、
「二十五歳だ」
女子高生相手にサバを読む二十八歳独身。
最近、ビールよりも日本酒が旨いと感じてきました。
「おにいさん」
「はいどうもおにいさんです。で、なに?」
どうにもこうにも訳あり風だな、これは。
「おにいさんは、どうして生きてるんですか」
サラリーマンは生きている価値がないから死ね。と、そう言いたいのだろうか。女子高生怖っ!?
「もっと具体的に質問してくれないか?」
「具体的」
少女は腕を組み、顎に右人差し指を乗せて、
「生きる希望はあるのか、でしょうか」
スケールがでかすぎることを言う。
やっぱり、死ね、と遠回しに伝えてるのでは?
「生きる希望なんてなくても生きられる。日本とはそういう国だ」
「でも、生きる希望がなくちゃ」
質問の意図はわからないが、彼女にとっては急を要する問題なのだろう。
「そこまで生きる希望に固執する理由はなんだ? アイデンティティクライシスってやつ?」
俺だって高校生時代は、生きる意味とか、存在価値とか、漠然と考えたものだ。で、高校を卒業して、大学に入学した頃にはそんな悩みも何処かに消えてしまった。酒と煙草を覚えたから、かもしれない。
そうなると、俺は酒と煙草を呑むために生きてるってことにならないか? うっわ、きっつ。
【修正報告】
・2021年9月30日……本文の大幅な加筆、微細な修正。