#5 隣のカップルが懈い
「たーくん先輩。カップ麺一口ください」
「うん? ああ、ほら。一口だけな」
俺の手からカップ麺を奪うと、俺が使っていた箸で、思いっきり麺を啜った。
普通、他人が使っていた割り箸を使用するのは、いくら相手が顔見知りであっても躊躇するものだ。況してや、相手が会社の先輩で、その先輩が異性だった場合は尚更だろう。
だがしかし、この三越莉子、見事なまでの啜りっぷりである。大胆というか、それとも豪胆と呼ぶべきか、『自分、別に気にしないので』を地で行く姿勢に呆気に取られ、愕然とするばかりだった。
「うーん。麺、伸びてますね」
「文句あるなら食うなよ」
「食べなきゃ言えない感想です」
そりゃそうだ。
「でも美味しかったです。ごちそうさまでした」
「おう」
そうして戻ってきたカップ麺は、三割近くの量を減らしていた。
確かに『一口食べていい』と許可を出したが、それは『常識の範囲内』での一口だ。——いいや、そもそも三越に常識を問うのが間違いなのだろう。
型破りな性格だし、それを今更どうこう言っても詮無いことである。
そうはいっても解せないのが、三越が使用した後の割り箸だ。関節キスになるのでは? と、純情な感情は三分の一に留めておくとしても、箸の先端が明らかに凸凹しているではないか。
これ、絶対に噛んでるよな。箸と三越を交互に見ると、三越は片目を閉じて、「てへ?」と笑う。
だからどうして、お前のリアクションは妙に古臭いんだ。——可愛いけど!
「ああ……癖になってるんです、箸を噛んじゃうの」
どこかの暗殺一家みたいな言い訳をする。
「子どもの頃からの癖か?」
「はい。それでいつもマ……母上に怒られてたんです」
「ははうえ……?」
「あ、いやその、う、うちの家系は代々そう呼んでるんです!」
誤魔化すの下手かよ。
他人の前でママと言いそうになって焦る気持ちはわかる。だけど、さすがに母上はないだろう。武士なの? ありにけり、とかも偶に使っているし。
『三越、平安時代からタイムスリップしてきた説』が俺の中で急浮上した。しないけど。箸を気にするほど麺も残ってないしな。
つか、ちゃっかりスープまで堪能してやがる。
ええ……?
もうほとんど残ってなくない……?
百八十九円分のうち、八十九円分は食っただろコイツ。
残りの麺とスープを平らげたと同時に、噴水が勢いよく水を吹き出した。
太陽光に照らされた水飛沫が、ガラスの破片みたいに煌々と輝きを放ちながら風に右へと流される。
不意に訪れた幻想的な光景に、隣のベンチに座る年齢的に危険な匂いがするカップルの中年男性が野太い声で、「おおっ」と小さく声を漏らした。
「ここの噴水は十五分間隔で噴射するのよ」片割れの太ましい中年女性が言う。
それに対して中年男は、「オマエの噴水も見たいなぁ」とか、気色悪い返事を返していた。
座った時から感じ取っていた鼻に付く臭いの正体は、彼女から発せられた香水で間違いない。
もう少し品の良い物を選んでほしいとは思うけれども、個人の趣味に他人が口出しできるほど俺は偉い人間ではない。
噴水が飛沫を上げ終わる頃を見計らうように、三越はとつおいつしながら口を開いた。
「たーくん先輩」
いつもであれば「たーくん言うな」と口を挟むところではある。けれど、三越の思い悩む表情から、冗談で返すのは憚られた。
いや、たーくんと呼ぶのは本当にやめてほしいとは思う。最近では同じ部署で働く者たちまでもが三越を真似て、『たーくん』と呼ぶ始末だ。勘弁してくれ。
三越は憂いを帯びた目を俺に向けて、すっと俯いた。
「これでも一応、あたし、女なんですよ」
干瓢巻きを手に、しんみりした口調で言う。
その台詞は、干瓢巻きをどうにかしてから言ってほしかったものだ。ムードもヘチマもあったもんじゃない。台無しだ。
シリアスな盤面を築く際、状況にそぐわぬ物を持っていては締まりがない。
船を動かす船長がオモチャのアヒルを手に持って、『全速前進!』と号令をかけても、巫山戯ているとしか思えないのは道理である。
こういった緊張の一瞬でも締まらないのは、三越らしいといえばらしいのだが、せめてもう少しだけ、空気にも気を配っていただきたいものだ。
「気づいてますよね?」
何が、とは言明しない。
言明してしまえば終わってしまうと、三越は考えたのだ。だから、主語を隠し、自分の問いをあやふやにした。自分が傷つくことを恐れて、相手の逃げ道を用意したのだ。
クソ、酷い香水の臭いだ。
無意識のままでいられたら、鼻奥を刺激する嫌な臭いにも鈍感でいられたことだろう。だからといって問題が解決するはずもなく、甘んじて悪臭を呑み込むしかない。
不条理だ。そして、不合理でもある。
ただ悪戯に問題を先延ばしにして回答を見送るのも、答えを言明される恐怖に怯えて逃げ道を作るのも、結局は真実の根幹に触れたくないからに他ならない。
「五〇〇円をちょろまかしたことか? それくらい恵んでやる。俺は先輩だから器が大きいんだ。そして、いつかは部長になって楽をしたい。その暁には、今日の五〇〇円を倍額以上の働きで返してくれ」
曖昧にして隠された言葉に、俺は心当たりがある。
でも、知らないふりをした。
俺もまた、傷を作りたくなかったのだろう。
もう、痛みを伴うのは、嫌だ——。
「昇進したい理由に私怨が混ざっている気がするんですけど……はぁ、鈍感なたーくんに、乙女心を理解してほしいと思った自分がバカでした」
「おい、たーくん言うな。せめて先輩をつけろ」
三越はぷくっと頬を膨らませて、干瓢巻きを一気に口に入れた。
鈍感、ねえ……鈍感でいてやるのも、結構大変なんだぞ。
俺みたな男では、三越の彼氏に相応しくない。
こんなにぱっとしない二十八歳の男を取っ捕まえたって、ご自慢の彼氏にはなれない。
俺の過去が、それを物の見事に証明してしまっている。
それに、三越は愛情と尊敬を混合している節がある。先輩って肩書きに目を曇らせているだけ。
尊敬の念を抱いているかの問答は省くとしても、靡かない男を相手に時間を浪費するのは愚かな行為だ。
俺は、もう、誰とも恋愛する気はない——。
「はぁー……そういうところですよ、たーくん先輩」
「どういうところだよ、意味がわからん」
「もういいでーす!」
ベンチから立ち上がると、あっかんべーと舌を出した。
「これからも鈍感なラノベ主人公を演じてればいいですよーだ!」
捨て台詞を吐いて、早歩きで来た道を戻り始める。
「あ、おい、三越!」
「近寄らないでくださーい!」
いや、それは無理だろ……同じ職場なんだから。
【修正報告】
・2021年9月30日……本文の微細な修正。
・2021年10月15日……誤字報告箇所の修正。
報告ありがとうございました!