#18 何もないことが幸せは懈い
「仕事ってそんなに大切ですか?」
夕凪美佳は面白くなさそうに唇を尖らせた。
普段こそ——ちゃんと会うのは二度目だが——大人びて見える美佳が見せた子どもらしい一面に、俺は胸中で安堵の溜息を零す。子どもが背伸びをしても得にはならないからだ。子どもらしくしろとまでは言わないけれども、子どもとしてすごせる時間は現在しかない。いずれは大人としての行動と責任を強要される日が来るのだから、子どものうちは無理に大人らしく振る舞う必要などない。
そんな美佳の口から発せられた子どもらしい質問に、大人としての行動と責任を強要されている俺はどう答えてやるのがベストだろうか? と思考を巡らせる。
結論から言えば仕事は大切だ。安定した給料は何事にも変え難い。就職難である現代において、『社会人』という肩書きは盾にもなり剣にもなり得る。その恩恵を受けやすいのは、やはりアパートを借りる時だろう。他にも、クレジットカードや保険など、社会人であることで、ある程度の信頼を得ることができる。
就職難とは言ったが、実際は、求人雑誌を捲ればいくらでも仕事はある。選り好みをしなければ、社会人となること自体のハードルはさほど高くはない。だが、求人募集に記載される『初心者歓迎』をよく読むと、上級スキル持ちを欲していたり、『アットホームな職場で、従業員は家族のように接しています』などと書かれていたらブラック体制を疑ってしまうのも道理だ。
会社は新しい人材を欲しているが、有象無象を雇える余裕はない。それなりの実力を持った『スーパー新人』が欲しいのだ。これによって、人材確保の需要と供給のバランスが大幅に崩れてしまっているように思える。最初から新人を鍛えるよりもある程度仕上がっている人間を雇ったほうが効率が良い、という考えが人事部にある以上、有象無象と切り捨てられた人間が社会人の恩恵を受けるのは困難だろう。
さて、考えはそこそこに纏まりはしたが、それをどう美佳に伝えてやればいいだろうか。「仕事は大切だ」の一言で納得するほど、美佳は短絡的な思考ではない。相手が三越であればそれも視野に入れるけれど、女子高生は大人の側面を知っているがゆえに厄介な相手だ。飴玉一つで解決できる年頃は、とっくの昔に過ぎ去ってしまっているのである。
「仕事は大切だ。でも、仕事以外に大切な物が出来れば、どちらかを優先するかなんて明らかだろう?」
ちょっと苦しいか? でも、仕事に対しての思慮に浅い高校生に伝えられるぎりぎりのラインではある。それとも、女子高生らしく「社会人になればやばみが深いし、めっちゃあげぽよ!」とでも言えば理解してもらいやすいだろうか。それは……さすがに阿呆すぎるな。
「やっぱ、滝宮さんって大人なんですね」
「やっぱってなんだ。俺はこれでも立派な企業戦士だぞ」
「へー、つよそう」
小並感。
「教えてくれてありがと、滝宮さん」
「おう」
美佳はちょこんとお辞儀をすると、踊るように軽いステップを踏みながら俺の横を通りすぎた。俺と話をして、仕事に対する不明瞭だった部分に光でも差したのだろう。多少でも未来の不安が解けてよかったと思いつつくすりと笑い、アパートに向かって歩き出そうと一歩足を踏み出した——。
「滝宮さん!」
背後から名前を呼ばれて振り返ると、数メートル先に美佳の姿があった。早く行かないとデートに遅刻するぞ。まさか、敢えて相手を待たせることで愛情を測ろうとでもいうのか。恋愛の駆け引きをせずに生きてきた俺に美佳の真意は測りきれない。
「わたし、彼氏いませんので! いまはただの散歩です!」
街中で堂々と彼氏いない宣言をするなんて、女子高生は恐れを知らないようだ。無知なだけかもわからないが、どうなのだろう? まあ、デートでなかったのならいいと親心のような感情を覚えた。親父臭いな。おっさんじゃねーけど。
「早く帰れよ!」
そう言って、俺は前を見据える。
綺麗な夕焼け空が電線の向こうに広がっていた。
* * *
日曜日が来た。
曜日が来るって言い回しが本当に正しいのかどうか怪しいところではあるが、時計は常に一定のリズムを刻む。一秒、一分、同じように思えても、そこに画然とした違いはないが、井然とした区切りがあるのは事実だ。
お笑い芸人がコメンテーターとなってここ一週間に起きた事件・ニュースを面白可笑しく伝える情報番組を見終えたところで、もう冷めてしまったコーヒーとスマホを寝巻きの胸ポケットに突っ込んでベランダに出た。
降水確率四〇パーセントの空には、ところどころに灰色の雲が目立つ。お隣さんが見ているテレビの音が微かに聞こえるなか、煙草を一本取り出して火をつけた。最初の一本目は格別な味がする。タールが高い煙草を吸っている理由は、この感覚を味わうためと言っても過言ではない。——我ながらジャンキーすぎて草煙る。
さすがに昨日断ったせいかは知らないが、以降、三越はメッセージを飛ばしてこない。仕事があると言ったから遠慮しているのだろう。かの三越でも『遠慮』などという概念があるようだ。いつも俺に集っているくせに、こういう時だけは律儀である。
何もないことが幸せだって何かの歌詞にあったけれど、何もないことは不安も付き纏うのではないかと俺は考えている。だから人間はやる事を求めて彷徨う獣になるのだろう——と、脈略もへったくれもないことを考えては、馬鹿か俺はと気恥ずかしくなり煙を吐き出した。
とまれ、今日やるべきことは少ない。持ち帰った仕事は昨晩のうちに片付けたし、見たかったドラマも見終えている。何もないことが幸せなら、どうしてこうも虚しい気分になるものやら。冷めたコーヒーを一口飲んで、カップをエアコンの室外機の上に置いた。
「散歩でもするか?」
と思い至ったが、雨が降る可能性を考慮すると、部屋でのんびり寝溜めしておいたほうが明日のためにもなりそうである。睡眠は大切だ。至高とも言える。言えるだけで擦り減った精神力と体力が癒えるはずもないのだけれど、充分に睡眠を取ったという実績は明日の原動力にも繋がるわけで。……四の五の言ってないでさっさと寝てしまうに限る。
これ一本だけ吸い終わったらな。
【修正報告】
・報告無し。




