#12 憂き目に遭うのが懈い
定時上がりに酒を飲み、終電で帰路に着く。
安アパートの二階、二〇五号室が俺の部屋だ。
アパートの幾つかには、カーテン越しに暖かそうな明かりが灯っていた。俺の部屋に明かりはない。
スーツをハンガーに掛けて消臭スプレーをこれでもかってくらい吹きかけてから、寝巻き代わりにしているジャージに着替えた。
着替え終わるとベランダに向かい、外で煙草を一服するのが習慣だ。
ベランダの手すり壁に両肘を置き、体重を預ける。
いい景色だとは言えないが、見慣れてくれば悪くない。住めば都とは上手いことを言う。
そういえば、細井は無事に帰宅できただろうか?
店を出る頃にはぐでんぐでんに出来上がっていたので、マスターにタクシーを呼んでもらった。
気持ちよく帰らせるのがミッションである。
つまり、タクシー代も俺持ちだ。タクシーの運転手に、「スーツの胸ポケットに札が入っている」と伝えておいたので、会計時に運転手が困ることもないだろう。
細井がタクシー代のお釣りを返してくれるかどうかは……あまり期待しないでおこう。どうせ明日には忘れて、月曜日にけろっとした顔で出社するに違いない。
今日だけで偉い金額が一気に吹っ飛んだ。
バーの会計が五千円以内に収められたのも、細井がずっとアルコール度数の高いカクテルを頼んいたおかげだ。
カクテルは飲みやすいだけに、悪酔いしそうだな。
俺が飲んだのは、ジントニック、スクリュードライバー、ソルティドッグの三種類。どれも美味かった。マスターに内訳を聞いたところ、それぞれが約六百円とちょっと。
俺が注文したカクテルは、比較的安いカクテルだったらしい。良心的な値段かはさておき、脳内にある『リピートしたい店リスト』に追加しておいた。
店の名前は確か——。
「デンティ・ディ・レオーネって店だ」
細井に連絡しようとスマホを開いたはずだったが、どうせ酔い潰れて寝ているだろう。
そう思って三越に今日の謝罪の旨を書いたメッセージを飛ばすと、二本目の煙草が吸い終わる頃に電話が掛かってきた。
改めて謝罪をすると、三越も不遜な態度を取ってしまったことを詫びて一件落着。
俺と三越は良くも悪くも、大体こんな感じで関係が成り立っている。
会社の後輩ってだけの関係にここまでするのは、由佳との一件があってからだ。「ありがとう」と「ごめんなさい」は伝える。子どもの頃にできたことが、大人になってできなくなるなんて皮肉だ。
謝意を相手に伝えることは誠実である証拠にはならない。
それは、人間として当たり前のことだ。
過去の俺は、その『当たり前』ができていなかった。
それゆえに、由佳は俺から離れていったのだろう。
何という店で飲んでたのか? と問われた俺は、「ちょっと待っててくれ」と財布からマスターに貰った店の名刺を取り出して読み上げた。イタリア語で書かれていたため、発音があっているのかは定かではない。
『調べてみたんですけど〝たんぽぽ〟って意味でした』
「たんぽぽ? たんぽぽって、あのたんぽぽか?」
チクリ、記憶の中にある何かが心臓を刺した。由佳と最後に会った喫茶店も、たんぽぽに由来した名前だった気がする。野道に咲く黄色がトラウマになりそうだ。
『訳に、伊能忠敬の〝伊〟と書いてあったので、きっとイタリア語でしょうね』
きっともなにも、漢字の『伊』で表す国はイタリアだ。
日本のニュースや新聞でよく見かける国の略称文字は、基本的に漢字一文字、或いはカタカナ一文字で表現する。が、イラク共和国だけは英字の『Q』で表す。これ、豆知識な。
それはどうでもいいとして——。
数多ある『伊』の例えを、どうして『伊能忠敬』としたのか。
有名どころを言うならば、お茶でお馴染みの飲料メーカーの頭文字も『伊』だし、別メーカーから販売している緑茶の名前も『伊』から始まる。
まあ、伊能忠敬も有名人ではあるけれど……昨今のスマホアプリは偉人たちを美少女やら美少年やら特殊能力者にしがちだしな。
一七四五年、千葉県の九十九里町で生まれた忠敬——幼き頃の名前は三治郎という——は、商人を生業とする伊能家の婿養子になり、伊能家十代当主となる。
商才に恵まれていた忠敬は、その才を余すことなく発揮し、衰退していた伊能家を再興させた。
伊能忠敬がどれほどの財を築き上げたのか、詳細は不明なものの、暮らしていた地域が飢饉に見舞われた際、私財を投じて村人に配布したり、日本を測量するにあたって数千万円を自己投資していたことから、莫大な利益を上げていたと推測される。
……と、三越の脳内で伊能忠敬のエピソードが繰り広げられているはずもない。
俺も他人のことを言えるほど歴史に詳しいわけではないが、三越よりは伊能忠敬についての知識を有していると自信がある。
『ところで』
出し抜けに言われて……嫌な予感がする。
『明日、暇ですか?』
果然、構えていた質問を投げかけてきた。
「明日は——」
壁に貼り付けたコルクボードには、直近でやらなければならないことを書いたメモとカレンダーが画鋲で留めてある。
手頃な仕事はそこそこ持ち帰っているけれど、早急に取り掛からねばならない仕事ではなかった——なかったのだが。
「すまん。月曜日の朝一で部長に提出したい書類があって、日曜日の夜までに終わらせたいんだ」
咄嗟に嘘を吐いた。嘘を言わなければならない、と思ったのだ。
俺の勤め先に恋愛禁止のルールはない。
我が部署の辻褄部長でさえも、社内恋愛を経て家庭を築いた一人である。
それでも、仕事とプライベートは区別するべきだと俺は考えている。
そんな俺に対し、細井は常々『真面目だ』と言うけれども、決して真面目ぶっているわけではない。
勿論、仕事は真面目に取り組んでいるので、その姿勢を評価されて責任のある仕事を任される場面も多々ある。けれども、恋愛となると話は別だ。
昼の様子から察するに、三越は俺をデートに誘うつもりだったのだろう——そうではなかった場合は、自意識過剰で気持ち悪い男でしかないんだよなぁ……。
『もしかして、あたしのこと、避けてますか?』
憂いを帯びた声に意識を呼び戻されて、俺は落ち着きを取り戻すべく煙草に火をつけた。安っぽい味だ。高級煙草を堪能した覚えもないけれど。
フゥ——、と、夜空に浮かんだ三日月に向けて煙を吐く。煙は夜風に流されて、霧のように溶けていった。
「避けていたら、こうして連絡を取っていない」
通販で購入したスタンド灰皿に灰を落とす。
本来は水を溜めて使用するほうが安全だ。しかし、水を張れば異臭の原因になるため、緊急用に水が二リットル入ったペットボトルを傍に用意してある。備えあれば憂いなし。仕事も同じ。恋愛は、どうだろうな。
『そう——ですよね』
そう、と、ですよね、の間に含みを感じた。俺が避けていることを承知の上で、見て見ぬ振りをしたのだろう。
ああ、だから恋愛は嫌なんだ。
青息吐息を聞くのも、聞かれるのも。それらに対して他人から、ああだこうだと口出しされるのも正直言って懈い。
『あたし、そろそろ寝ますね? おやすみなさい』
通話を終えると、どっと疲れが押し寄せてきた。俺も寝よう。
「後のことは明日の俺に任せた!」
誰もいない部屋での独り言は、こちこち鳴らす壁掛け時計の音によって静かに掻き消されていった——。
【修正報告】
・2021年10月7日……誤字報告箇所の修正。
報告ありがとうございました!




