3
「ふう…」
アシャは詰めていた息を吐いて足を止め、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。汗は玉となり、既に幾筋も額から頬や鼻筋へと流れ落ち、きらきら光りながら足下の万年雪の上に滴っていた。
ラズーンの中心、『氷の双宮』を北に登ること4日、何回かは『宙道』が通じていないところに無理矢理に空間を押し開いてまでの強行軍だったが、ようやく『狩人の山』(オムニド)の中腹にたどり着いたばかり、眼前に偉容を持って聳え立つ『狩人の山』(オムニド)は、昔も今も俗世界の者の侵入を拒んで万年雪に身を包み、険しい尾根は天へと連なり、聖域としての名を欲しいままにしている。
その、人がほとんど踏み込まぬ雪の上に、明らかに人馬の物と思われる足跡が残っているのを見つけ、アシャは険しく眉をしかめた。
(予想以上に遅れをとったな)
敵にも視察官がおり、ギヌア・ラズーンがラズーンの第二正統後継者であることを考え、あえて並の視察官にはできない『宙道』を通じるという荒技をやってのけたのだが、それでもまだ、敵の方が一歩先んじていた。
しかし、これから先は、ギヌアとて、おいそれと『宙道』を使えないだろう。『泉の狩人』は自分達の聖域が、勝手に歪められるのをひどく嫌う。協力を求めに行く者が、協力者の機嫌を損ねたがらないのは当然だ。
「…よし」
後ろでひとまとめに束ねた金髪を払い、アシャは再び雪山を登り始めた。
きゅっ、きゅっ、と鋭い音をたてて踏み固められた雪は、ほんのしばらくの間、その足跡を残すが、一陣の風が白く雪を被った木々を揺らせると、見る間に雪煙がたち、あたりの雪を舞わせて足跡を消していってしまう。
見るともなくそれを見つめたアシャは微かに笑む。
『狩人の山』(オムニド)が聖域とされ、人の入れぬ所となっているのは、この気まぐれな風によるところも多かった。足跡を消し、雪を舞わせて方角を見失わせ、入り込んだ人間を供物として呑み込む山。確かに並の人間では、到底生きては出られないだろう。
消されていく足跡を追って木立を抜けたアシャの視界に、白い処女雪と鮮やかな対比を為す、どす黒いねっとりとした流れが入ってきた。
『狩人の山』(オムニド)の奥深くから流れ出て、ラズーンを横切り、プームの海岸まで走る『黒の流れ(デーヤ)』だ。決してそれほど速い流れとは見えない。むしろ、艶やかな局面の連続を思わせる流れはゆったりと遅く、音もなく穏やかに雪の間を下っていくように見える。
だが、それも、この『狩人の山』(オムニド)の真白く美しい姿同様、本来の恐ろしさを巧みに隠す仮面だ。
『黒の流れ(デーヤ)』は、そのひどく緩慢な動きに欺かれて、うっかりと身を浸した者を決して放しはしない。重く粘り着く触手で絡みつき抱擁し、海へ、その水底へと犠牲者を引きずり込み流し込むまで、犠牲者がその異様なまでに粘度のある液体に溺れ狂うまで、流れを緩めようとはしない。それは、ただの水ではなく、『狩人の山』(オムニド)に含まれた岩石の成分と、地下深くにある太古の植物の死骸が、底知れぬ力を加えられて変わった黒い液体が、不思議な親和力で溶け込んでいる水なのだ。
「ん?」
アシャは、その流れの中に、今しももがきつつ溺れつつ流されて行く数頭の馬を認めて立ち止まった。見ている間に力尽きて黒い濁流に呑み込まれ、沈み、無惨な姿を河口へ向かって運ばれていく。
「馬を捨てた、か」
先行するギヌアが馬で乗り入れていたことにも驚きだが、それを捨てざるを得なかった辺り、アシャほどにはこの山に詳しくなかったということか。
零れたにやりとした笑みをユーノが見れば、悪だくみをしているんだろう、とののしったところだろう。馬達には可哀想な結末だったが、捨てたのはそれほど前ではない、これでアシャにも勝機が出て来た。
「……安心しろ」
いずれ誰かがお前達の後を追う。
「俺、ということもあり得るがな」
冷笑したアシャは低く呟いて、再び雪の上を歩み始める。脳裏には、少年の頃が甦っている。