10
言い慣れた台詞は、何の苦労もなく口から零れた。夢の中でも現実でも、繰り返し繰り返し何度も何度も言い聞かせて来た、そのことば。
「私みたいなの、『あの』アシャが女扱いすると思う?」
肩を竦めて見せた、どれほどふざけた内容か理解してもらうために。
「ボクはアシャの弟分なの。そういう役割なんだ。アシャはとにかく綺麗な女性に目がないし。リディならまだしも、ボクは対象以前の問題だよ」
だが、ジノは笑わない。じっとユーノを見つめ続ける。
しばらくユーノのことばを胸の内で反芻していたようだったが、納得しかねる口調でこう尋ねた。
「あなたはアシャ様をどう思われているのですか」
礼儀さえ排した、直接的、むしろ朴訥な問い。そして、曖昧なごまかしを許さない問い。
(さすが詩人だよね)
リディノに向けた、その忠誠にも感嘆する。瞳が静かに語っている、邪魔をするならこの場で斬る、と。
「アシャはね」
にいっ、とユーノは笑った。
「旅のいい仲間。剣の師匠。レアナ姉さまの想い人。そして、ゆくゆくは、ボクの兄になってくれる人」
「!」
ジノが息を呑む。
「リディには、悪いけど」
小さい頃からアシャの花嫁になることを夢見てきた、と話したリディノの、桜色の頬を思い出し、胸が痛んだ。
「………その、おことば」
ジノも同様の思いだったのだろう、それでもなお、苦しげに問いを重ねる。
「嘘偽りはございませんか」
「こんなことに嘘をついても仕方ないだろ? リディの気持ちは知ってる……嘘なんてつけない。……本当のことだよ」
(そうとも)
ユーノはアシャを愛してなどいない。好いてもいない。アシャはいい友人だ。いい仲間だ。
(何よりアシャがそう望んでいる)
嘘も、死ぬまで尽き続ければ本当になる。
そうして、今日かも知れない、明日かも知れない、この命が尽きた果てには、ユーノの想いはどこにも何も残らずに済むだろう。アシャはレアナと結ばれて、セレドの安寧を守るだろう。セレドは立派な皇と皇妃に率いられ、美しく富み栄えてくれるだろう。ユーノの想いは誰一人知らぬままで、それを抱えてユーノは死出の旅へと出向くだろう。想いを封じ込めた魂を『死の女神』(イラークトル)に差し出すのだ。
「…」
ジノはなおも納得していない視線をこちらに向けたままだ。それでいいのか、そう問いかけている気がする。
お前はそれで、本当にいいのか。
口に出して重ねれば、虚構も真実に成り代わってしまうのだぞ。
(うん、いいんだ)
聴こえぬ問いにユーノは頷く。
(それで、いい)
「……そうですか」
ジノは再び目を伏せた。やがて、静かに頭を下げる。
「夜分遅くに失礼いたしました」
「構わないよ」
「おやすみなさいませ」
「うん、おやすみ」
ジノはしずしずと引き下がり、扉を閉めた。気配が廊下をゆっくりと遠ざかっていく。さっきより、足を引きずるような重さが加わった気がする。
その気配を感じながら、ユーノはもう一度、開け放った窓の向こうに目をやった。
(彼方の空の下、この世の果て、神々の住まうラズーンがあると、昔語りによく聞いた)
さわさわ、と遠い闇から葉鳴りがした。吹き込んでくる風の源を見つけようとするように、なおも夜に目を凝らしながら、ユーノは考えに耽る。
(ラズーンはこの世の統合府、神々は性を持たず、その果ての向こうには何もない……まるで幻の都のような気がしていた)
しかし、今はどうだろう。
ラズーンに辿り着き、その四大公の1人、ミダス公公邸にこうして住まってみると、セレドこそが、遠く幼い日々に抱いた夢まぼろしのような気がしてくる。
(セレドのことばかりじゃない)
あれほど長かった旅さえも、一つ一つの場面は鮮明に心に焼きついているのに、いざそれを心の中から拾い上げてみれば、それらもまた、昔語りの一つのように、妙に遠いものになってしまっているようだ。
(『洗礼』を受けたせいかな。それとも、これが『思い出』というものなんだろうか)
脳裏をきららかな金と紫が駆け抜ける。
(そうしていつか、アシャのことも、こんな風に思い出になったなと考えられるようになるんだろうか)
それは、『いつかセレドに帰れるんだろうか』とか『帰り着くまで無事に生きていられるんだろうか』という問いと同じく、切なく儚い問いかけのような気がした。
(それともずっとこうやって、思い切れないまま、諦め切れないまま、想い続けていくんだろうか)
そんなのまるで女の子みたいじゃないか、と考え、一瞬目を見開いてくすりと笑った。
(女の子、だったんだっけ、忘れてた)
「それでも…」
思わず声に漏れたのは、堪え切れぬ傷みのせいだろうか。
(それでも)
心の中で繰り返す。
(やり遂げなくちゃいけない、そう求められるなら……ううん)
軽く首を振って弱気を追い出し、前方の闇を見つめ直す。
(やり遂げられるはずだ、だって、他でもない、自分が選び取った道なんだから)
「…!」
ふいに、嵐の前の静けさに似た沈黙を守っていた彼方の空が、夜明けではない、どこか毒々しい紅にぼんやりと明るんだ。
(『運命』が……来る)
唐突に予感が広がった。
無意識に剣を探り、唇を引き締める。
「ゆ……の…」
その彼女の心象を受け取ったのか、ベッドでレスファートが小さく怯えたような声を上げた。
風はユーノに向かってきている。
『聖なる輪』(リーソン)がわずかに熱を含む。
朱に染まった空の下、ギヌアの哄笑が、深く密やかに広がり始めたようだった。
第四部、終。