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夜は更けている。
静かな暖かい晩で、風が微かにそよぐ程度、鳥も眠り馬も眠り、墓場で憩う死者達さえも眠り続ける、そんな夜だった。
ミダス公公邸の一室、ユーノに与えられた居室には、ぼんやりと明るい月光が、開いた窓から差し込んでいる。
ベッドで寝息をたてているのは、プラチナブロンドをくしゃくしゃにして丸くなっているレスファート、白い夜着に手足を縮め、時折小さな口を動かして何事か呟いている。
当の部屋の持ち主、ユーノの姿はベッドにはない。
開けた窓に腰掛け、窓枠に凭れて腕を組み、じっと彼方の空を見つめている。夜着でさえない服装ーチュニックに短い腹辺りまでの上着、腰には愛用の剣を吊るし、額に『聖なる輪』(リーソン)という出で立ちーで、ユーノがたまたま起きていたのではないと誰にでもわかる。
遠くから風がゆっくりと吹き寄せて来て、ユーノは少し眼を伏せた。短く削いだ焦茶の前髪の毛先が、目元に乱れるのをそのままに、微苦笑を浮かべる。
(こんな夜に眠れない、なんて)
ふと思い出した。
以前、野戦部隊の野営の夜、見張りをしていたユーノにユカルが話しかけてきた。
俺達はこんな平和な夜こそ眠りにつけないんだ。戦いがある時は、敵がどこにいるのか、何を待っているのかがわかる。けれども、こんな静かな夜は、敵の居場所さえも『夜の王子』(セトラート)の衣の影に隠れてしまってわからない。どこからかやってくる敵の匂いを、一瞬でも早く嗅ぎ取ろうと、静まった夜気にぴりぴりと神経を尖らせちまう。戦いから戦いへ、毎日を戦乱に明け暮れる俺達の性分というものかも知れないな。
(私も、性分かも知れない)
静かな夜ほど心が尖る。この平穏が偽物ではないかと訝る心を持て余し、一人何度もセレドの街をレノで駆けた。
これは真実か。
それともたまさかの夢にごまかされているのか。
それはいつも、心にあった危機感だ。平穏な日々という仮面を被って『何か』は確実に進み続けている。その『何か』に気づいていなければ、自分は大きなものを失ってしまうに違いない、と警告が響く。
(考えてみれば、カザドのことだけじゃなかったんだ)
ユーノの敏感な心に聴こえていたのは、揺れ動く諸国動乱に踏み散らされる人々の悲鳴、日々の要であるラズーンが撓みきしんでいる音だったのだ。
そして、ユーノはレアナの身代わりとしてにせよ、セレドから遥か遠く、故国においては世界の果てと言われたラズーンへ、ただひたすらな旅を続けて来た。この旅さえ済めば、世界を統べる府に辿り着きさえすれば、『何か』が明らかになる、『何か』の姿がはっきり見える、そう信じて。
(でも)
多くのものを重ね見るほど、目に見えない渦の中へ巻き込まれている自分が、垣間見えるような気がする。
ラズーンの崩壊、『運命』との戦い、『太皇』の交代、遥か昔に作り上げられ定められていた未来への流れ。
それらは宙道のように、数多くの背景を持ちながら、どれ一つとも関わらずにまっすぐある一点へと伸びている。
ひょっとすると、世界というものはそのように成り立っているのかも知れない。その辿り着く先を見ようとして、人は数限りなく生と死を繰り返すのかも知れない……。
「、誰だ?」
ふいに、扉の向こうに熱を感じた。人の立ち止まった気配、誰何して剣に指を触れる。
もう、この公邸も安全ではないことをユーノは熟知している。ましてや、無防備に眠るレスファートを側に、一瞬たりともためらう気はない。
「私です」
「…ジノ?」
殺気が届いたのだろうか、扉の向こうの人物はすぐに答えを返した。抜き放ちかけていた剣を鞘に戻し、ユーノは扉の方へ向かう。気配は身動きしない。
レスファートを気にしながら、そっと扉を開け、薄暗い廊下に佇む相手の姿を認めた。
「どうしたの?」
まるで手酷く詰られることを覚悟しているような俯き方、それでもそろそろと顔を上げて、ジノは瞬いた。
「少しお尋ねしたいことが。……入ってもよろしいでしょうか」
「うん、いいけど……レスが眠ってる。そっと入って」
「はい」
ジノは頷き、しなやかな動きで扉の隙間から滑り込んできた。背後にリディノがいる気配はない。物音一つたてずに部屋に入ってきたジノに、ユーノは目を細める。
「前から気になっていたんだけど」
「はい」
「あなた、ただの詩人じゃないね? つまり、ねっからの詩人じゃないだろ?」
「…お察しの通りです」
ジノは深い青の瞳に微笑をたたえた。月光の中では黒と見まごう色味が静かに瞼に隠される。
「9つの歳まで、地方の一都市で盗みまがいをして生きておりました。ミダス公に拾われ、姫さまにお会いしていなければ、あのまま今も、日々を盗み暮らし、やがては捕まってくびり殺されていたことでしょう」
「…そう」
ジノの何を認めてミダス公が愛娘の側に置く事を許したのか、それは想像するよりないけれど、おそらくはリディノが強く懇願したのだろう。重ねた年月の中で、ジノはリディノを唯一の主として仕えることを選んだ、それが振舞いに見て取れる。
そのかけがえない主の側にいることなく、ジノは夜更けにユーノを訪ねてきている。何か事情があることなのだ、とユーノは察した。
「ところで、何の用?」
「……どうしても、お尋ねしたいことがあるのです」
再びあげてきた瞳は、光を吸い込んで重い。
「何?」
「アシャ様は、ひょっとして、あなた様を愛しておられるのではありませんか」
「っ」
びくり、と思わず体が震えた。どうしてそんな、そう考える心が千々に切れる。
そうであったらよかったのに。そうであるはずもないのに。そうではないのにどうしてそんな。
波立つ心に抗うユーノを、ジノはじっと凝視している。ふざけたり、からかったりしている表情ではない。
「まさか」
にじみ出てくる苦笑は、自分に対する自嘲。
これほど望みがないことを、それでもことば一つにまだ揺れる、自分の甘さ愚かしさ。
「アシャが好きなのは、レアナ姉さまだよ」




