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「姫さまっ?!」
うろたえたようなジノの声を背中に、ベッドへ身を投げ出した。両腕で顔を覆い、体を竦めて踞る。心の中に、今まで感じたことのないどす黒いものが蠢いている。
(レアナ姫ではなくて、ユーノなの? 私ではなくて、ユーノなの?)
なぜ? なぜ? なぜ?
「姫さま?」
「来ないで!」
自分の声がひび割れていた。
「姫さま」
「来ないでジノ! 私きっと、とても嫌な顔をしているわ!」
そうだ、この感情を知っている。今まで知らぬふりをしてきたが、幾度も感じてきたものだ。アシャが美しい姫君達と寄り添うたび、夕闇の中をそぞろ歩いたり、月光の中で逢瀬を重ねたと聞くたび、胸の片隅に燻りながら体の内側を這い昇ろうとしてきた闇。
「姫さま!」
ジノは一旦は引いた気配だったが、リディノの悲鳴じみた声がただ事ではないと察したのだろう、すぐに駆け寄ってきてリディノを覗き込んだ。
「姫さま! どうなされたのです、姫さま!」
「…ジノ……ジノ!」
呑み込まれるわ、私。
「ジノ……私…」
助けてちょうだい、こんなもの、私は要らない。
ひくひくとしゃくり上げながら、リディノは顔を上げた。自分をずっと守ってきてくれた顔が、温かな心配を浮かべて見下ろしている。
同じような心配を、おそらくはアシャもユーノに向けているのだ、この、自分ではなくて。
そう思った瞬間、溢れる涙が止まらなくなった。
「ジノっ!!」
「姫さま……姫さま……」
しがみついた胸は震えていた。それがジノがどれほどリディノを案じているかの証明に思えて、リディノは身悶えるように体を揺さぶった。
「私…私……私……っ」
何が間違っていた? ちゃんとラズーンでアシャを待っていた。何が間違っていた? アシャの安らぐ所を整え、守り、美しく装っていた。何が間違っていた? 無理を言わなかった、我が儘を訴えなかった、だだをこねなかった、アシャを困らせたことなどないはずだ。
なのに。
なのに。
愛情を全て受け止めるべく、あらゆる準備を整えてきた自分に、この仕打ちなのか。しかも相手はレアナではない。至上の美姫ではない。ごく普通の娘でさえない。傷だらけの、教養もない、剣を振り回し、人を殺すような娘。リディノとユーノの最大の違いは、ただ。ただ。
「……ただ……一緒に居た…だけだわ……っ!」
引き裂かれたような自分の声に、そっと体を撫でてくれていたジノの手がぴたりと止まる。
やがて、密やかな声が囁いた。
「……大丈夫ですよ、姫さま」
「…っう」
「ご心配ごとはジノにお任せ下さいませ」
力強い口調にリディノは瞬く。嵐に揉まれた小舟のようだった心が、ゆりかごに揺られるように、少しずつ治まってくる。
「ジノ…」
「きっとうまくやってご覧にいれますから」
「……ジノ…」
そうだ、とリディノは慰められつつ思う。
何を取り乱しているのだろう。
彼女はラズーン四大公、『銀羽根』率いるミダス公の一人娘、言わば、統合府ラズーンの聖なる姫なのだ。そして、アシャはラズーンの第一正統後継者。その称号を負う彼が、辺境の小国の、ことさら目を惹くわけもない姫に魅かれるわけがない。
「……ジノ…」
リディノは小さく頷いて安堵し、ジノは再びリディノの体を撫で始める。
薄く開いた戸口に一つの影が動いた。
その影が静かに歩み去るのに2人は気づかなかった。
ましてや、その影が視察官ジュナ・グラティアスであることや、その顔に浮かんでいた、およそラズーン支配下にあるまじき、禍々しい笑みに、気づくはずもなかった。
 




