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「……」
アシャが眠りに落ちて少し後、リディノはラフレスの花影からそっと顔を覗かせた。
「アシャ兄さま…」
小さく呟いて、果実のようなと評される唇をきゅっと結ぶ。
ジノを置いて駆けつけてきて、アシャが誰に恋歌を歌っているわけでもないと知って、一時はほっとしたものの、こっそり様子を窺ってしまったので出るにも出られなくなり、しばらく身を潜めて、陽射しの中で眩く輝くアシャの姿を見つめていた。
キャサランの金細工のように輝かしい髪。奥深い山で取れる紫水晶のような鮮やかで深い瞳。男性にしてはやや色白で、華やかな宮廷衣装を身に着ければ、姫君達よりも艶やかな姿。端麗な顔立ちは確かに女性的ではあるものの、響く声は柔らかく低く、耳を澄ませていれば天上の楽音もかくやと思われる豊かさ。甘く優しい仕草でダンスを誘い、この指先を導いてくれる巧みさ、すがりつけば、しなやかな体がしっかりと抱きとめてくれる確かさと温かさ。
(望まない娘なんて、きっといない)
だから、アシャは誰を想っても苦しい想いなどするはずがない、そう思っていた。
なのに、花の影で見つめていたアシャの横顔は、これまで見たどんな時の顔より情熱に満ちて、薄紅を帯びた頬に浮かんだ表情は官能的とでも言うのだろうか、見つめていると、体の奥が切ない波に疼くように思えた。やや掠れた声を無理に押し上げるような声音は、いつまでも聞いていたいような、けれど二度と聞きたくないような響きでこう叫んでいた。
お前が、欲しい。
「……」
ごくり、と唾を呑み込んで、リディノは静かに脚を踏み出す。
あの声は、何だろう。
誰に向けて、叫ばれたのだろう。
(一体,誰を想って、歌っておられたの?)
これまで、あれほど熱を込めてアシャが詩を歌うのを聴いたことがない。
もちろん、今までリディノに向かっても歌ってくれたことはある。どれも優しく甘美な声だったが、今さきほど聴いた歌と引き比べればはっきりとわかる。
あれらはどれも他人行儀だった。整えられ飾られ、丁寧に奏でられてはいるが、心が噴き出し溢れ落ちるような激しさは微塵もなかった。
(兄さま…)
間近まで近づいても、よほど疲れているのだろう、アシャは目を覚ます気配もない。そろそろと薄桃色のドレスに包まれた膝をつく。
(アシャ…)
「ん…」
さすがに振動が伝わったのか、アシャが軽く眉をしかめて顔を背けた。が、すぐにほわりと頼りなく口許が緩み、聡明そうな額に乱れた髪の房のせいか、無防備な子どものような寝顔に戻る。
以前、アシャはリディノにこう話してくれた。
『戦士が眠っている時に近づいて、相手が目を覚まさないとしたら、それは彼がリディノに心を許している証拠だよ』
「……アシャ…兄さま…」
リディノは微笑んだ。
先ほどまでの不安が、空を漂った薄雲のように消えて行く。
何を心配しているのだろう。アシャが名だたる剣士であることは間違いない。そのアシャが、今こうしてリディノがこれほど近づいても、目を開くことさえない。
それはそれほどアシャがリディノに心を許しているということではないか。無限の信頼がここに示されているではないか。
じっと見下ろしていたリディノの目が、ふと、アシャの唇に止まった。薄く開かれた唇は、つやつやとした薄赤に染まっている。
アシャの髪に触らないように、そっと両手を地面についた。そろそろと顔を降ろしていく。目を閉じ、微かな呼吸を目当てに、轟くように打つ胸の鼓動を堪えながら、唇を近づけていく…が。
「…ゆーの…」
「っ!」
アシャの唇が唐突に動き、掠れた声が零れてどきりとした。目を見開く、その耳が拾ったことばの意外さに、思考が追いつかない。そのリディノを嘲笑うように、アシャは再び、優しい不安げな声で繰り返した。
「…ユーノ……そっちへ……行くな…」
「…アシャ……」
聞いたことのない声、だが、その声色に感じ取ったのは、紛れもなく、さっきの恋歌に含まれていた切ない、愛しい、熱っぽい懇願。
(まさか)
視界が衝撃に眩み、歪む。
否定しようとする心を嘲笑う確信。
「、う…」
ドレスの裾がアシャに触れないようにかろうじて捌いて立ち上がり、リディノは走り出しながら漏れかけた嗚咽を必死に掌で押さえ込む。
(ユーノ? ユーノ? 兄さま、ユーノ、そう、呼ばれたの?)
信じられない。
ユーノ、あのユーノが、アシャの想いの相手だと言うのか、あの、あの、あの、傷だらけの、小汚い姿で現れた、可愛らしさとも美しさともほど遠い、男のような、あの子が。
(ユーノ? どうして? どうしてなの、アシャ兄さま?)
心の中で繰り返しながら、花苑を抜け、回廊を駆け、部屋の中へ飛び込んでいく。




