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「お前を連れて逃げよう
月と星の谷間を潜り
天の流れを泳ぎ渡る
彼方の異国へ逃げ続けよう…」
立風琴の音が激しくかき鳴らされる、許されぬ恋人達の逃避行のように、極める甘い切なさに砕け散る悲鳴のように。
眉を潜め、目を閉じて、アシャが腰を降ろしているのは、かつてユーノが凶剣に倒れたその場所だ。
あの日ラフレスは紅に染まり、愛しい少女は連れ去られて遠く、突き立てられた剣だけが残ってアシャを嘲笑っていた。
(いつもいつも、ユーノは俺の腕から奪われていく)
目を閉じたまま、胸に砕けた傷みに顔を歪めた。
愛しい。
愛しい。
こんなにも、あの娘が愛おしくてたまらない。
けれど、その想いを告げるには、既に遅すぎる。
アシャの想いは、ユーノの命と引き換えに、あの『沈黙の扉』の中に封じ込められてしまった。
「お前を連れて逃げよう
草の波を蹴立てる白馬に
行く手を照らす金の星かけて
この世の果てまで逃げ続けよう…」
あの雨の日、ユーノが気づくまで、昏々と眠り続ける彼女を抱いて横になりながら、額に垂れかかる熱にうだった髪の下で、幾度も考えていた、このまま連れ攫ってしまおうか、と。
だがその度に、ラフィンニのことばが耳に甦って、最後の決断をためらわせた。
(ユーノには、誰か、愛する者がいる)
自分の腕に包み込んでしまえるほど華奢な体には無数の傷痕、それはユーノを見えない鎖で縛りつけているかのように、滑らかな肌に白々とした刻印を残している。
その傷痕の理由を、アシャは半分も知らない。知り合わぬ前のものは我慢ができるとして、付き人として側に従いながらも、なおも知らぬ傷が増えていくという意味に、いいようのない苛立ちが広がる。
(俺が知らないところで、お前は繰り返し裂かれ、傷つけられ、倒れ込む……けれど、お前は怯まない、その度に何度も立ち上がり、再び渦中に飛び込んでいく。その気力の源には一体、誰の姿があるんだ…?)
唇の柔らかさは知っている。うなじの細さも、手足のしなやかさも、強く抱き締めて跳ね返る弾力や抵抗される切ない甘さも、十分味わったことがある。
(けれど)
ユーノの心だけがわからない。
たじろがぬ心の強さの源泉は、きっとどこかにあるはずなのだ。遠く離れたセレドの家族や民の安楽への願い、ラズーンへの忠誠、レスファートやイルファ達仲間への思いやり、そういったものより、もっと激しく強く、ユーノを支える何かの存在が。
(お前の体はここにあるのに)
眠り続ける体とは別に、ユーノの魂は誰かとともに遠く彼方を駆け去っている。たとえ、アシャが思いのままに、ユーノを組み敷いて蹂躙したところで、そうやって彼女を連れ攫ってしまったところで、ユーノの心は、何よりも欲しいその魂は、きっと、決してアシャの手には入らない。
それでも。
(このままお前を攫っていきたい)
そう叫ぶ心を宥めるのに、どれほど克己心を振り絞ったか。
「お前を連れて逃げよう
この両腕に抱きかかえ
この胸に抱き締めて
時の境を逃げ続けよう
お前を連れて逃げよう……」
(ユーノ)
ツィーン、と高い一音の余韻、最後の旋律に快楽を極める瞬間の解放を重ねて、アシャは口を噤む。弾む呼吸を呑み込んで、内側を駆け上がり跳ね散る甘い波に堪えて、しばらく息を詰める。
静まり返った邸内には、人の声さえ聴こえない。最近いろいろと物騒な出来事ばかりが続いていた日々、その中にある空白のような平和な憩いに心を寛がせ、皆、うたた寝でもしているのだろう。
身動きしないアシャの側を、ブーコの羽鳴りが掠めていく。
「…ふ」
沈黙していたアシャは唐突に唇を綻ばせた。どこか甘く、どこか自嘲する気配の苦笑を浮かべる。
(どうしようもない、男というものは)
思い定めて、ゆっくりと目を開けた。
眩い陽射しの中、ラフレスが盛りを過ぎて咲き崩れようと艶を競っている。溢れかえる白の誘惑の彼方に、一瞬、花嫁衣装を身に着けたユーノの姿が過っていく。
(あんなことで、お前を俺のものだと決めてしまっている)
あえて花嫁衣装を選んだのはアシャだ。ユーノを広間に連れていきながら、この先何が起ころうと構わないと思っていた。
(俺のために着てくれるとは限らないのに)
むしろ、他の男のために装う可能性が高い、その運命に挑戦するような気持ちがあったのも確かだ。
奪えるものなら奪ってみろ。見ろ、俺はこの位置から引かないぞ。
幼くて向こう見ずな宣言、それが後々、まさか『泉の狩人』(オーミノ)の干渉によって覆されるとは思いもしない、ユーノの心を思いやることさえない、自己中心的で傲慢な男の雄叫び。
それはつまり、天誅だったのかも知れない。
ユーノにはふさわしき出逢いが既に定められており、それはアシャなど及ぶべくもないのだと、何度も示されたのに納得できず、歯ぎしりする前に認めることさえなく、ただひたすらに突っ走ってきた男に下された鉄槌。
それでも。
アシャは立風琴を置き、ごろりと寝転がった。
(結局、俺はユーノを追い続けるんだろう)
それこそ、他の男の所へ一心に駆けて行っているのかも知れないユーノを。その身の無事を願い、その心の安寧を祈り、ついに辿り着く、その瞬間に歯噛みする自分の姿を嘲笑いながら。
(止められないんだ)
請い伸ばす手が止まらない。
振り返る視線が外せない。
笑って見送って欲しいと望まれたなら、ユーノがアシャに望むものがそれしかないのなら、迷わず差し出すことがわかっている。
(俺を望んでくれ、ユーノ)
たった一本の指でもいい。
そのためなら、残り全てを犠牲にしても、ユーノの元に届けよう。
確かに想いを告げるのは封じられたが、想いそのものを封じられたわけではない、と自分に言い聞かせかけて、はたと我に返り、くつくつ嗤った。
(本当に、どうしようもない、男というものは)
無理もない、そうやって人は生き残ってきたのだ。
女という海の中に、自分を切り刻んで注ぎ込み、未来への時間を手に入れて来た。
(ただ、俺は…)
ゆっくりと思考が霞んでくる。ここ連日の疲労は、荒れ狂う心が静まっていけば、見る見る肉体の支配を取り戻す。四肢が重くなりだるくなり、地面に自らが吸い込まれていくような感覚の中、アシャは一瞬眉を寄せる。
(俺は…その繋がりの中には……最初から、いなかった…)
ならば、どこへ還ればいいのだろう。
幼い頃からの問いが柔らかに繰り返される頃、アシャは寝息を立て出した。




