表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラズーン 4  作者: segakiyui
10.幻遥けく

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

85/89

6

「お前を連れて逃げよう

 月と星の谷間を潜り

 天の流れを泳ぎ渡る

 彼方の異国へ逃げ続けよう…」

 立風琴リュシの音が激しくかき鳴らされる、許されぬ恋人達の逃避行のように、極める甘い切なさに砕け散る悲鳴のように。

 眉を潜め、目を閉じて、アシャが腰を降ろしているのは、かつてユーノが凶剣に倒れたその場所だ。

 あの日ラフレスは紅に染まり、愛しい少女は連れ去られて遠く、突き立てられた剣だけが残ってアシャを嘲笑っていた。

(いつもいつも、ユーノは俺の腕から奪われていく)

 目を閉じたまま、胸に砕けた傷みに顔を歪めた。

 愛しい。

 愛しい。

 こんなにも、あの娘が愛おしくてたまらない。

 けれど、その想いを告げるには、既に遅すぎる。

 アシャの想いは、ユーノの命と引き換えに、あの『沈黙の扉』の中に封じ込められてしまった。

「お前を連れて逃げよう

 草の波を蹴立てる白馬に

 行く手を照らす金の星かけて

 この世の果てまで逃げ続けよう…」

 あの雨の日、ユーノが気づくまで、昏々と眠り続ける彼女を抱いて横になりながら、額に垂れかかる熱にうだった髪の下で、幾度も考えていた、このまま連れ攫ってしまおうか、と。

 だがその度に、ラフィンニのことばが耳に甦って、最後の決断をためらわせた。

(ユーノには、誰か、愛する者がいる)

 自分の腕に包み込んでしまえるほど華奢な体には無数の傷痕、それはユーノを見えない鎖で縛りつけているかのように、滑らかな肌に白々とした刻印を残している。

 その傷痕の理由を、アシャは半分も知らない。知り合わぬ前のものは我慢ができるとして、付き人として側に従いながらも、なおも知らぬ傷が増えていくという意味に、いいようのない苛立ちが広がる。

(俺が知らないところで、お前は繰り返し裂かれ、傷つけられ、倒れ込む……けれど、お前は怯まない、その度に何度も立ち上がり、再び渦中に飛び込んでいく。その気力の源には一体、誰の姿があるんだ…?)

 唇の柔らかさは知っている。うなじの細さも、手足のしなやかさも、強く抱き締めて跳ね返る弾力や抵抗される切ない甘さも、十分味わったことがある。

(けれど)

 ユーノの心だけがわからない。

 たじろがぬ心の強さの源泉は、きっとどこかにあるはずなのだ。遠く離れたセレドの家族や民の安楽への願い、ラズーンへの忠誠、レスファートやイルファ達仲間への思いやり、そういったものより、もっと激しく強く、ユーノを支える何かの存在が。

(お前の体はここにあるのに)

 眠り続ける体とは別に、ユーノの魂は誰かとともに遠く彼方を駆け去っている。たとえ、アシャが思いのままに、ユーノを組み敷いて蹂躙したところで、そうやって彼女を連れ攫ってしまったところで、ユーノの心は、何よりも欲しいその魂は、きっと、決してアシャの手には入らない。

 それでも。

(このままお前を攫っていきたい)

 そう叫ぶ心を宥めるのに、どれほど克己心を振り絞ったか。

「お前を連れて逃げよう

 この両腕に抱きかかえ

 この胸に抱き締めて

 時の境を逃げ続けよう


 お前を連れて逃げよう……」

(ユーノ)

 ツィーン、と高い一音の余韻、最後の旋律に快楽を極める瞬間の解放を重ねて、アシャは口を噤む。弾む呼吸を呑み込んで、内側を駆け上がり跳ね散る甘い波に堪えて、しばらく息を詰める。

 静まり返った邸内には、人の声さえ聴こえない。最近いろいろと物騒な出来事ばかりが続いていた日々、その中にある空白のような平和な憩いに心を寛がせ、皆、うたた寝でもしているのだろう。

 身動きしないアシャの側を、ブーコの羽鳴りが掠めていく。

「…ふ」

 沈黙していたアシャは唐突に唇を綻ばせた。どこか甘く、どこか自嘲する気配の苦笑を浮かべる。

(どうしようもない、男というものは)

 思い定めて、ゆっくりと目を開けた。

 眩い陽射しの中、ラフレスが盛りを過ぎて咲き崩れようと艶を競っている。溢れかえる白の誘惑の彼方に、一瞬、花嫁衣装を身に着けたユーノの姿が過っていく。

(あんなことで、お前を俺のものだと決めてしまっている)

 あえて花嫁衣装を選んだのはアシャだ。ユーノを広間に連れていきながら、この先何が起ころうと構わないと思っていた。

(俺のために着てくれるとは限らないのに)

 むしろ、他の男のために装う可能性が高い、その運命に挑戦するような気持ちがあったのも確かだ。

 奪えるものなら奪ってみろ。見ろ、俺はこの位置から引かないぞ。

 幼くて向こう見ずな宣言、それが後々、まさか『泉の狩人』(オーミノ)の干渉によって覆されるとは思いもしない、ユーノの心を思いやることさえない、自己中心的で傲慢な男の雄叫び。

 それはつまり、天誅だったのかも知れない。

 ユーノにはふさわしき出逢いが既に定められており、それはアシャなど及ぶべくもないのだと、何度も示されたのに納得できず、歯ぎしりする前に認めることさえなく、ただひたすらに突っ走ってきた男に下された鉄槌。

 それでも。

 アシャは立風琴リュシを置き、ごろりと寝転がった。

(結局、俺はユーノを追い続けるんだろう)

 それこそ、他の男の所へ一心に駆けて行っているのかも知れないユーノを。その身の無事を願い、その心の安寧を祈り、ついに辿り着く、その瞬間に歯噛みする自分の姿を嘲笑いながら。

(止められないんだ)

 請い伸ばす手が止まらない。

 振り返る視線が外せない。

 笑って見送って欲しいと望まれたなら、ユーノがアシャに望むものがそれしかないのなら、迷わず差し出すことがわかっている。

(俺を望んでくれ、ユーノ)

 たった一本の指でもいい。

 そのためなら、残り全てを犠牲にしても、ユーノの元に届けよう。

 確かに想いを告げるのは封じられたが、想いそのものを封じられたわけではない、と自分に言い聞かせかけて、はたと我に返り、くつくつ嗤った。

(本当に、どうしようもない、男というものは)

 無理もない、そうやって人は生き残ってきたのだ。

 女という海の中に、自分を切り刻んで注ぎ込み、未来への時間を手に入れて来た。

(ただ、俺は…)

 ゆっくりと思考が霞んでくる。ここ連日の疲労は、荒れ狂う心が静まっていけば、見る見る肉体の支配を取り戻す。四肢が重くなりだるくなり、地面に自らが吸い込まれていくような感覚の中、アシャは一瞬眉を寄せる。

(俺は…その繋がりの中には……最初から、いなかった…)

 ならば、どこへ還ればいいのだろう。

 幼い頃からの問いが柔らかに繰り返される頃、アシャは寝息を立て出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ