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その胸に自分を溶け込ませるように甘えているレスファートを見ながら、リディノも溢れる涙が止まらなくなった。
「アシャ兄さま!」
飛びつき、しがみつく。
「ご無事だったのね、アシャ兄さま!」
雨に濡れた衣服からは戦場を駆け抜けたような埃と汗の匂いがした。今までアシャからそんなものを嗅ぎ取ったことなどないだけに、安堵とともに不安も滲む。
確かに噂は知っている、アシャは剣士でもあるのだ、戦の経験も重ねている。
だが、リディノにとって、アシャはいつも極上の微笑をたたえた上品な詩人、リディノの甘えを卒なく受け止めてくれる騎士だった。
「ああ、リディ」
耳元で囁かれる声はいつもより掠れている。それでも、いつも戻って来た時に与えられるキスは、優しく頬を撫でていく。
「大丈夫だったよ」
安心させる声音に戻って、リディノはほっとした。アシャが全く見知らぬ誰かになりそうだったのを、そっと胸の内に押し込めかけて、はっとする。
「兄さま、これは…」
しがみついた掌の下、薄い短衣の中に重なり合った布の感触があった。ぎくりと体を強張らせて問いかける。
「怪我が、まだ…?」
「掠り傷だよ、すぐに治る」
アシャは快活に応じた。
「それより、リディ…」
だが、続いたことばはリディノの耳には入らなかった。
包帯を幾重にも巻かなくてはならないような傷。
そんな怪我が掠り傷などではないことは、リディノにもよくわかっている。百歩譲って、リディノが案じるほどの傷ではなかったのだとしても、治りかけているような傷をいつまでも包帯で覆っておくようなアシャではないことを、リディノはよく知っている。
(そんな傷で)
胸の内に湧き上がった黒い雲。
(そんな傷を押して…ユーノを助けに向かわれたの…?)
何だろう、この不愉快で苦しい気持ちは。
(もし、私が)
リディノが同じような窮地に陥ったなら。
(アシャ兄さまは)
「リディ?」
「あ、はい」
改めて呼びかけられて、リディノは我に返った。
「もう1人、お客様をお連れした」
アシャが背後の闇に呼びかける。
「レアナ姫、どうぞ」
「…っ」
薄暗がりの中から、1人の女性が近づいてくる。雨粒を宝石のように光らせた、栗色の波打つ髪、卵形の整った顔立ちは滑らかで白く、深く鮮やかな宝石を思わせる瞳はけぶるような睫毛に囲まれている。伸びやかな首筋、しなやかで気品ある物腰、一目見ればわかる、この女性こそ姫君と呼ばれるべき人であると。
ほっそりとした脚が、背後にイルファを従えて静かに歩み寄ってくる、と、一瞬、歩を止めた。
「……リディノ姫」
名前を教えられていたのだろうか、それにしても親しげな、まるで懐かしい友人に出逢ったような喜びが見る見る広がって、にっこりとリディノに微笑みかけた。
「レアナ・セレディスです。どうぞよろしく」
(綺麗な人だった)
ぼんやりと花苑から響いてくる歌声に耳を傾けながら、リディノはレアナの微笑を甦らせる。
(ううん、綺麗なだけじゃない……大人っぽくて、すてきな女性)
あれが名高いレアナ姫。
辺境の国にレアナ姫という類稀な美姫がいる、そういう噂は聞いたことがあるけれど、どこかで軽く見ていた、統合府であるラズーンに居並ぶ姫達よりも抜きん出ているはずなどない、と。飾りものもドレスも、夜会も作法も殿方達も、辺境の小国ならば限られているだろう、ラズーンのように諸国からの品々が巡っているとは考えにくい。そうした中での美しい姫、であるならば、きっと噂は風に巻かれて大きく高く舞い上がっているのだと。
事実、ユーノを見た時には、異質さに驚きはした、見知らぬ美しさを感じもした、だがそれは所謂『姫』の美とはまた全く別のもの、そう思えた。
だが、あの女性は違う。
リディノや『西の姫君』や、いや、夜会に集まるラズーン周辺諸国の姫君の誰と並んでも、決して引けはとらぬだろう。ラズーンの品で身を飾れば、溜め息ばかり零れる中を歩くことになるのだろう。
輝く大輪の花ではない。けれど誰もが、側で花開く様を愛しみ味わい楽しみたいと願う、そういう女性の極みとも言える美しさだ。
(ひょっとすると……アシャ兄さま、も)
「しかし珍しい」
ジノがほとほと信じ難いと言いたげな声で繰り返す。
「あのような熱烈な恋歌を、一体誰に謳っておられるのやら」
「恋歌?」
思わずぎくりと振り返る。
「あれは恋歌なの?」
「はい」
ジノは頷き、歌詞を諳んじるように目を閉じた。
「許されぬ恋をしたが、お前を諦め切れない。いっそお前を攫って、世の終わりまで逃げ続けてしまおうか。そうして2人を引き裂く運命を欺いてしまおうか」
低い声で呟いて目を開ける。
「というような意味の詩です」
「そ…う…」
ならばアシャは許されぬ恋をしていると言うのか。
あのアシャが、想いを告げられぬような恋に苦しみ、詩に気持ちを吐き出していると言うのか。
(一体、誰に)
脳裏に閃いた、夜闇をほのかに照らすようなレアナ姫の笑顔。
(まさか)
「姫さま?!」
ジノの声にも振り返らず、リディノは身を翻して、花苑の中に続く扉を抜け、小道を走り出していた。




