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ラズーン 4  作者: segakiyui
10.幻遥けく
83/89

4

「……お前を連れて逃げよう

 この世界の果てまで逃げよう

 死の女神も

 運命さえも

 追いつけない夜を逃げよう


 お前を連れて逃げよう…」

「…あれは…」

 ミダス公邸の回廊の中、リディノは立ち止まって首を傾げた。

 降り注ぐ陽射しの中、花粉を運び蜜を集めるブーコ飛び交い、ラフレスをはじめとする花々の薫りが溢れ満ちる苑から、憂いを含んだ豊かな歌声が聴こえてくる。

「…珍しい。アシャ様のようですが」

 側に付き従っていたジノも、瞬きをして花苑を見やった。

「そのようね」

 頷いて、リディノは数日前のことを思い出す。


 アシャが出て行ってから不安な夜が続いていた。

 リディノはジノの昔語りを聴いて夜を過ごすことが多くなったし、レスファートも彼女の側で膝を抱えて過ごすことが増えていた。

 大切な人が側にいない。

 大切な人が戻らない。

 側に温もりがないだけで、人は容易く、一人ぼっちで荒野を彷徨っていた原始の夜に引き戻される。

 仲間はどこだ。

 背中を温め、ひもじさを分かち合い、危険に寄り添い、互いの盾となるべき者はどこへ行った?

 ジノの声だけが、唯一闇に抗する呪文でもあるかのように、いろいろな詩を繰り返しねだって歌わせ続ける。レスファートもそのうちの幾つかを覚えては歌い、それでささやかな慰めは得るものの、そんな夜が繰り返された後は、疲れ切ってベッドに入ることもなく、ジノに叱られつつも、床の敷物の上で2人、身を寄せ合って眠ってしまう。

 そんなある夜、ふと何かのざわめきがして、リディノは体を起こした。

 窓の外に細かな砂を落とすような音が満ちている。雨が降っているのだ。

 だが、いつもなら、雨は公邸に沈黙をもたらすものなのに、この雨はひどく騒がしい。

「どうしたの、リディ…」

 眠たげにレスファートが見上げてくるのに首を振る。

「さあ…何か…」

 ジノは側に居ない。屋敷が奇妙な興奮に揺れているような感覚だ。

 と、リディノの答えを待つまでもなく、唐突にレスファートがぴょこんと立ち上がった。扉の方をじっと見つめ、まるで草原に住む小動物のように意識を集めて目を凝らす。

 次の瞬間、ぱっと弾けるような明るい笑みがレスファートの顔に広がった。

「レス?!」

「ユーノだ!」

 いきなり部屋から走り出しながら、少年は高らかに宣言する。

「ユーノが帰ってきたっ!」

「えっ?!」

 慌てて立ち上がり、同じように部屋を走り出たリディノは、回廊の向こうから、顔を紅潮させたジノが駆け寄ってくるのを見て取った。

「姫さま!」

 その側をレスファートが駆け抜けて、まっすぐ入り口へ走っていく。入れ違いに距離を縮めてきたジノが、

「アシャ様がお帰りになりました!」

「アシャ兄さまが!」

 身内が沸き立つような興奮が溢れた。

「はい、ユーノ様もご一緒です!」

「わかったわ! ジノ、一緒に来て!」

「はいっ」

 姫らしくない、ミダス公が見ていれば、そう窘められただろう。ドレスの裾を蹴散らすような激しさで、リディノは公邸の中を急ぐ。

(アシャ兄さま……アシャ!)

 それでは皆無事なのだ。無事に生きて戻ってきてくれたのだ。

 やがて赤々と灯のともった公邸入り口に、茶色のマントも革靴も、見事な金髪さえ濡れそぼったアシャが、そのマントで抱え込むように、白いチュニック姿のユーノを連れて入ってくるのが見えた。

「ああ、すまない」

 迎えの者がいそいそと布を差し出し、濡れたマントを受け取ろうとするのに、アシャが溜め息まじりに謝罪して、ちらりと隣のユーノを見下ろす。

「ラズーンじゃ雨の日の方が少ないのに、わざわざ今夜帰るなどと言い出してな」

「何言ってんのさ」

 苦笑したアシャをじろりとユーノがねめつける。

「アシャこそ、少しでも早く戻ろうって急かしたくせに」

 受け取った布で濡れた髪を拭くユーノは元気そうだ。そこへ、

「ユーノぉ!!」

 銀色の髪を振り乱して、レスファートがユーノの腰にしがみついた。涙で汚れた頬を容赦なくユーノに押しつけて、泣きじゃくりながら訴える。

「し、っ、しんっ…死んだっ……死んだ…って、アシャっ……アシャが…っ、いっ…いったん……もん……っ」

「ああ…ごめんよ、レス」

 とても痛い場所をもう一度抉り直されたような悲痛な表情で、ユーノが唇を噛み、俯いて跪いた。二度と離すまいとするかのようにしがみつくレスファートを、包むように抱き締める。

「ごめんな……ほんと……いつも…ごめん…」

 謝られても、もちろん、レスファートにはユーノに向ける矛先などない。必然、怒りはアシャに向けられる。

「あ…っ…アシャ…っ…なんか…っ…き……嫌い…だあっ…」

「おいおい」

 聞き咎めて、不服そうに唇をねじ曲げたアシャがレスファートを覗き込む。

「命の恩人に対して、その言い草はあんまりだろ、レス」

「だっ…だってぇ…っ」

 なおも怒りをぶつけようと振り仰ぐ少年の顎をぐいと掴み、顔を深く覗き込む。

「ユーノを助けたのは俺だぞ?」

「う…っ」

 ことばは失ってもアクアマリンの瞳の雄弁さは健在だ。たちまち大粒の涙をぼろぼろと零し、切なげに眉を寄せたかと思うと、噛み締めていた口を開いた。

「うっ、わあああっっっっ!」

「おっっ」

「うん、今のはアシャが悪い」

 うろたえて顎を離すアシャに、ユーノが頷いて断言する。

「ちょっと待て、ユーノ、俺は!」

「こんな小さな子を脅しつけたりして」

「いつ俺が!」

「いいよレス、怖かったよね、心配させたのはほんと、私が悪いんだ、ごめんよ」

 口をぱくぱくさせているアシャにくるりと背中を向けて、ユーノはレスファートを抱え込み慰めあやしてやる。

「ユーノぉっ」


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