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「……お前を連れて逃げよう
この世界の果てまで逃げよう
死の女神も
運命さえも
追いつけない夜を逃げよう
お前を連れて逃げよう…」
「…あれは…」
ミダス公邸の回廊の中、リディノは立ち止まって首を傾げた。
降り注ぐ陽射しの中、花粉を運び蜜を集めるブーコ飛び交い、ラフレスをはじめとする花々の薫りが溢れ満ちる苑から、憂いを含んだ豊かな歌声が聴こえてくる。
「…珍しい。アシャ様のようですが」
側に付き従っていたジノも、瞬きをして花苑を見やった。
「そのようね」
頷いて、リディノは数日前のことを思い出す。
アシャが出て行ってから不安な夜が続いていた。
リディノはジノの昔語りを聴いて夜を過ごすことが多くなったし、レスファートも彼女の側で膝を抱えて過ごすことが増えていた。
大切な人が側にいない。
大切な人が戻らない。
側に温もりがないだけで、人は容易く、一人ぼっちで荒野を彷徨っていた原始の夜に引き戻される。
仲間はどこだ。
背中を温め、ひもじさを分かち合い、危険に寄り添い、互いの盾となるべき者はどこへ行った?
ジノの声だけが、唯一闇に抗する呪文でもあるかのように、いろいろな詩を繰り返しねだって歌わせ続ける。レスファートもそのうちの幾つかを覚えては歌い、それでささやかな慰めは得るものの、そんな夜が繰り返された後は、疲れ切ってベッドに入ることもなく、ジノに叱られつつも、床の敷物の上で2人、身を寄せ合って眠ってしまう。
そんなある夜、ふと何かのざわめきがして、リディノは体を起こした。
窓の外に細かな砂を落とすような音が満ちている。雨が降っているのだ。
だが、いつもなら、雨は公邸に沈黙をもたらすものなのに、この雨はひどく騒がしい。
「どうしたの、リディ…」
眠たげにレスファートが見上げてくるのに首を振る。
「さあ…何か…」
ジノは側に居ない。屋敷が奇妙な興奮に揺れているような感覚だ。
と、リディノの答えを待つまでもなく、唐突にレスファートがぴょこんと立ち上がった。扉の方をじっと見つめ、まるで草原に住む小動物のように意識を集めて目を凝らす。
次の瞬間、ぱっと弾けるような明るい笑みがレスファートの顔に広がった。
「レス?!」
「ユーノだ!」
いきなり部屋から走り出しながら、少年は高らかに宣言する。
「ユーノが帰ってきたっ!」
「えっ?!」
慌てて立ち上がり、同じように部屋を走り出たリディノは、回廊の向こうから、顔を紅潮させたジノが駆け寄ってくるのを見て取った。
「姫さま!」
その側をレスファートが駆け抜けて、まっすぐ入り口へ走っていく。入れ違いに距離を縮めてきたジノが、
「アシャ様がお帰りになりました!」
「アシャ兄さまが!」
身内が沸き立つような興奮が溢れた。
「はい、ユーノ様もご一緒です!」
「わかったわ! ジノ、一緒に来て!」
「はいっ」
姫らしくない、ミダス公が見ていれば、そう窘められただろう。ドレスの裾を蹴散らすような激しさで、リディノは公邸の中を急ぐ。
(アシャ兄さま……アシャ!)
それでは皆無事なのだ。無事に生きて戻ってきてくれたのだ。
やがて赤々と灯のともった公邸入り口に、茶色のマントも革靴も、見事な金髪さえ濡れそぼったアシャが、そのマントで抱え込むように、白いチュニック姿のユーノを連れて入ってくるのが見えた。
「ああ、すまない」
迎えの者がいそいそと布を差し出し、濡れたマントを受け取ろうとするのに、アシャが溜め息まじりに謝罪して、ちらりと隣のユーノを見下ろす。
「ラズーンじゃ雨の日の方が少ないのに、わざわざ今夜帰るなどと言い出してな」
「何言ってんのさ」
苦笑したアシャをじろりとユーノがねめつける。
「アシャこそ、少しでも早く戻ろうって急かしたくせに」
受け取った布で濡れた髪を拭くユーノは元気そうだ。そこへ、
「ユーノぉ!!」
銀色の髪を振り乱して、レスファートがユーノの腰にしがみついた。涙で汚れた頬を容赦なくユーノに押しつけて、泣きじゃくりながら訴える。
「し、っ、しんっ…死んだっ……死んだ…って、アシャっ……アシャが…っ、いっ…いったん……もん……っ」
「ああ…ごめんよ、レス」
とても痛い場所をもう一度抉り直されたような悲痛な表情で、ユーノが唇を噛み、俯いて跪いた。二度と離すまいとするかのようにしがみつくレスファートを、包むように抱き締める。
「ごめんな……ほんと……いつも…ごめん…」
謝られても、もちろん、レスファートにはユーノに向ける矛先などない。必然、怒りはアシャに向けられる。
「あ…っ…アシャ…っ…なんか…っ…き……嫌い…だあっ…」
「おいおい」
聞き咎めて、不服そうに唇をねじ曲げたアシャがレスファートを覗き込む。
「命の恩人に対して、その言い草はあんまりだろ、レス」
「だっ…だってぇ…っ」
なおも怒りをぶつけようと振り仰ぐ少年の顎をぐいと掴み、顔を深く覗き込む。
「ユーノを助けたのは俺だぞ?」
「う…っ」
ことばは失ってもアクアマリンの瞳の雄弁さは健在だ。たちまち大粒の涙をぼろぼろと零し、切なげに眉を寄せたかと思うと、噛み締めていた口を開いた。
「うっ、わあああっっっっ!」
「おっっ」
「うん、今のはアシャが悪い」
うろたえて顎を離すアシャに、ユーノが頷いて断言する。
「ちょっと待て、ユーノ、俺は!」
「こんな小さな子を脅しつけたりして」
「いつ俺が!」
「いいよレス、怖かったよね、心配させたのはほんと、私が悪いんだ、ごめんよ」
口をぱくぱくさせているアシャにくるりと背中を向けて、ユーノはレスファートを抱え込み慰めあやしてやる。
「ユーノぉっ」




