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細かい砂が流れ落ちているような音が響いている。遠く微かに鳴る音は、ユーノの耳に優しく届く。
そして、もう一つの音も。
(雨が…降っている…)
ユーノはぼんやりと考えて、重なって聞こえるもう一つの音の正体を突き止めようといた。
すう………すう………すう………すう……。
(吸って……吐く……吐いて……吸う…)
規則正しい安らかな呼吸の音だと気づいた瞬間、ひやりとする冷たい風が身体を掠めて、ユーノは小動物のように身震いした。途切れることなく響いていた呼吸音が止まり、かわりに低い、けれども厚みのある豊かな声が問いかける。
「ん……冷えてきたか?」
ぱたり、と戸が閉まる音がした。雨の音が遠くなり、続いてそっと自分の身体を温かな腕が包むのを感じる。
「これでどうだ?」
(あたたかい)
答えようにも唇が動かなかった。ただ体から力が抜け、それで相手はユーノが頷いたと感じたようだ。
しばらくの沈黙。
やがて、
「まだ……眠り続ける気か、ユーノ」
不安げな、じれったそうな声が耳元で囁いた。吐息が耳朶に触れる。
「このまま、永久に目を覚まさない気か…?」
耳の穴に直接吹き込まれた声が背筋を走って、また微かに震えた。寒さを感じていると取られたのだろうか、少し強く相手に抱き寄せられる、が、左肩を刺し貫かれるような傷みが走って、ユーノは思わず体を震わせて目を見開いた。
「あ、つ…っ」
「ああ、すまん、傷に触っ……ユーノ!」
真正面に今にも零れ落ちそうなほど見開かれた至上の紫の瞳。
(これは夢の続きなのか?)
思わず訝った。
(私は『狩人の山』(オムニド)で倒れていたはずだ)
シズミィに喰い裂かれ、雪の中に激痛とともに倒れて意識を失っていたはずだ。
「おい…?」
「…アシャ……?」
瞬きして相手を眺め、乱れた髪や薄く開いた唇を眺め、滑らかに光を跳ねる肩と腕を眺め、そろそろと見下ろしていく視界に、半裸状態のアシャが自分を深く抱え込んで横たわっているのに気づき。
「っ、アシャっ、わたし………っっ!!」
「ばかっ、無茶するな!」
アシャの警告は一瞬遅かった。見る見る全身熱くなってとにもかくにもこの状態から離れようと跳ね起きた瞬間、さっきの数倍の激痛に意識を砕かれ、気が遠くなって倒れ込む。身体が竦み吐き気がして再び闇の中へ落ち込もうとしたユーノを、ぐっ、と柔かく力強い腕が抱きとめてくれる。
「ユーノ! おい、ユーノ!!」
耳を貫くような高い音が響き渡っている。視界がぐらぐらして体の左半分がごそりと削られたようだ。その想像に吐き気がして喉を鳴らし俯いて、必死にアシャにすがった。
「、、っ、」
やがて少しずつ少しずつ、激しい耳鳴りが納まってきて、体の節々を締めつけていた力が弱まり、逆にどんよりとした疲労感が満ちて来て力が抜ける。最後の体力を使い切ってしまったような感覚だ。
「…まったく…」
低いアシャの声が、頬を寄せている胸を伝わって聞こえてきた。
背後に微かに雨の音が続く。
「………お前って奴は」
困惑と諦めの籠った重い溜め息。ユーノの肩が強く擦りつけられているのを庇うように包んで、もう少し深く抱き寄せられた。手が頭をそっと引き寄せる。髪に吐息がかかる。
柔らかくて甘くて、このままとろりとアシャの体に溶け込みそうだ。
「私…どうしたの…?」
何度か口を開いて頑張って、ようやく出た声は、掠れて淡かった。
「どうしたが聞いて呆れる」
アシャの口調が少しおどける。
「俺をぶん殴って、『使者の輪』を奪って、『狩人の山』(オムニド)へ乗り込んで、シズミィとやり合って………無茶以外の何がある」
淡々と事実を並べる声に、怒ってはいないようだとほっとした。
「……ああ……そう…だっけ…」
シズミィとやり合った、勝ち目はなかった、それだけではない、途中何か禍々しい予感というか気配のようなものに絡みつかれて、何をやっても無駄、生き延びられないんだという感覚に手足が麻痺したような状態で動けなくなり、次の瞬間左肩から首にかけて激痛を感じるや否や意識を失った、ように思う。
「そうか……私……あそこで…」
呟いて、何かが抜け落ちている気がして瞬きした。
「あそこで……」
息を呑む。
「、使者はっ…?」
叫ぶだけでも体が痛かった。なのに、アシャは答えない。
「アシャ…?」
失敗したのだろうか。『泉の狩人』(オーミノ)はユーノの所行に呆れ果てて、『運命』につくとでも答えてしまったのだろうか。
思わずアシャを振り仰ごうとしたのに、肩を抱いていたアシャがなお深く両腕を回してきて、呼吸をするのが苦しくなるほどすっぽりと抱き込まれてしまった。
「アシャ…」
「…ユーノ…」
ためらうような優しい声。
では、やっぱり駄目だったのだろうか。それが知らせる破滅の足音を聞かせまいと、アシャはこれほど深くユーノを包んでくれているのだろうか。小さな子どもが必死に作り上げた泥団子を、よしよしと受け取ってくれる大人のように。その泥団子を食べないのは、幼子が嫌いだからではなく、無知であるだけなのだと知らせようとしているのだろうか。
重ねて問うのも怯んでしまって、ユーノは唇を噛んで糾弾を待った。
だが、アシャは動かない。何も言わない、いやむしろ。
(…アシャ…?)
髪にそっと押しつけられたものが何か、すぐにわかった。熱っぽい吐息を含んだ唇が、何度も,何度も、ユーノの髪に触れていく。
大丈夫だよ、怯えるな、破滅はお前のせいじゃない。
まるでそう言い聞かせるような気配に、ユーノは滲んでくる視界を閉じた。
(ひどいよ、アシャ)
ユーノだって、それなりに修羅場は潜ってきている。どれだけ頑張ってどれだけ命を賭けても、叶わない願いがあることぐらいはわかっている。
(言ってよ、駄目だったんだって。お前のしたことは、間違ってたって)
そんなに優しく宥めるように、そうだまるで、直接は触れられない恋人に愛撫を繰り返すように口づけされると、誤解してしまう。
(私は大丈夫だから、言ってよ)
慰めはいいから、厳しい現実に向き合わせて欲しい。
(でなきゃ、でなきゃ、私)
ただでさえ生き死にの境を越えた心は脆くなっている。アシャの優しさを、思いやりを勘違いする。こんなふうに抱き締められて、優しいキスを繰り返される、その行為が別のものだと感じてしまいそうになる。
「…っ」
苦しくて切なくて、腕を突っ張ろうとしたが体が動いてくれなかった。零れた涙は情けない自分が悔しいからだ。こんな非常時に、こんな厳しい状況に、ユーノを責めることもなく、黙って慰めてくれている優しい人の仕草を、自分への好意だと勘違いしたくてたまらない、自分の浅ましさにうんざりするからだ。
(ひどいよ……)
零れた涙がアシャの胸に落ちたのだろう、ぴくりと震えたアシャが腕を緩めてくれて、その僅かに開いた空間の心細さに一気に涙が溢れた。




