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「ほう」
「唇で声を封じるか」
さて、どうしてユーノを助け出すのかと、戸口で見守っていたセールが微かな笑い声をたてた。他の狩人も、アシャの煩悶を格好の見世物とばかりに眺めている。
「さても気障な男じゃ。こんな時でも伊達男ぶりを発揮するとはな」
「気障なばかりでもあるまい」
「長…」
ラフィンニの声に振り向く。
「考えてもみるがいい。ユーノ1人では身動きならぬ。娘を岩屋から連れ出そうとするのなら、抱いて運ぶしか手はあるまい。あの傷で抱き上げられ抱え込まれるのは激痛、自然、呻き声の1つや2つは零れよう。が、ここは『沈黙の扉』の中、声を上げれば無数の水晶の塊が彼らを押し潰し刺し貫く………ならば、如何にしてユーノの声を封じる?」
「猿ぐつわなりと何なりと」
おどけたような声が響いた。
「そういう荒事ができぬ男でもありますまい」
ラフィンニは微かに頷き、問いを重ねる。
「『あの』アシャが、己の命を引き換えにしようとまで惚れた娘に、か?」
「それに、猿ぐつわでは、呻き声を封じられぬ」
くすくすと別方向からからかう口調が応じた。
「半端に開いた口で呻かれては、元も子もない。好き者ならば別であろうが」
「そう言えば…」
ウォーグが思い出したように、岩屋の中のアシャを見やった。
「アシャの傷はまだ完治しておらぬはず」
「完治どころか、塞がってもおらぬわ」
ラフィンニの促しに『泉の狩人』(オーミノ)達がどれどれと覗き込む。
「なるほど血の匂いがする」「また新しく滲む気配じゃ」「アシャにはよう似合うておるが」
「その傷をおして宙道を開き、あの娘を救いに来たというのに、娘の命と引き換えに心に鍵を掛けねばならぬ」
ラフィンニは珍しく、憂うような優しい口調で続けた。
「名のある戦士でも娘の体ぐらいは手に入れようともがこうに……さすがアシャじゃな、あの口づけ、娘への別れを告げるものと見た。武人の誉れも高いアシャのこと、おそらくは二度と娘の唇に触れまい」
外でかまびすしく騒ぐ『泉の狩人』(オーミノ)達の声が聞こえているのかいないのか、ユーノを抱えて口を塞いでいたままのアシャが、緩やかに動き出した。抱え込み抱き上げる、その瞬間、苦しげに眉を寄せたのは、ユーノの口を塞いでいるためだけではないだろう。強張る体が傷みの元を教える。ひょっとするとユーノの口に、自分の悲鳴を注いだのかも知れない。
だが、アシャは動きを止めなかった。抱き上げたユーノと口を重ねながら戸口へ向かって歩いてくると、静かに一歩、戸口の外へ踏み出したと同時に顔を上げた。
「ふ、ぅ…」
口を離されたユーノが溜め息のような声を漏らして軽く仰け反る。それをそっと支えて我が胸へ抱き直し、アシャは優しく髪に唇を当てた。胸にもたれてくるユーノの頭に、目を閉じ、頬を寄せる。
場所が『狩人の山』(オムニド)でなかったなら、双方傷を負っていなければ、それは穏やかな昼下がりを楽しむ恋人達の寄り添う姿に見えた。
甘やかな時は数瞬。
唐突にアシャは目を開く。自分達の逢瀬を興味津々で見守っていた目を照れもせずに見返す。
「では、頂いていく」
むしろ爽やかな声音が宣言した。
「我らが聖女王じゃ、大切にして頂こう」
「安心しろ」
ラフィンニの確認に、冷淡に澄み渡った紫の瞳が応じる。
「二度とこんな目に遭わせない」
「そのことば、誓いと受け取っておこう。ユーノ様の傷は我らが念で包んでおいた。悪化はしておらぬはず」
「適切な処置に感謝する」
淡々と言い放ち、くるりとラフィンニに背中を向ける。伸びた背筋、俯き加減の首筋に金色の髪が幾筋も汗で張りついている。
アシャもまた、激痛を堪えている。
すぐに、その傷みは目に見えた。渡り廊下を歩くことなく、雪の上を歩み去る足下は、薄紅に染まっている。
だが、歩みは止まらない。ユーノを抱く腕が震えることもない。
誰もどこへと尋ねなかった。アシャが進む前方の空間に、きらきらとした金色の輪が、陽の光が残した傷痕のように浮かんでいる。
「……」
その前に立ち止まったアシャは、無言で念を込めた。ゆらり、とアシャの体の周囲が黄金の靄を漂わせ、揺らめく陽炎のように霞む。
次の瞬間、ばこり、と不気味な音をたてて、その輪の中が真っ黒に変わった。透明な泉の中に突然現れた闇のよう、目にした誰もが踏み込むのを恐れるだろう底知れなさだ。
アシャはたじろがなかった。ことさら身構えることもなく、むしろ薄い笑みを浮かべて足を踏み出す。
「…」
所詮、俺は。
呟いたことばの先は聞こえない。
雪の上に点々と鮮血を滴らせた跡を残し、アシャは闇の中へと姿を消した。




