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「『太皇』、私は! ……あつっ…」
稲妻のような痺れが額の輪から走って、頭の中へ躍り込む。目を閉じ、眉をしかめて、ユーノは頭を押さえた。
「急に心を開放してはいかん」
『太皇』が温和な口調で窘める。
「お前の心は、今、余りにも無防備なのじゃ。ラズーンの『洗礼』を受け、なおかつ、『正統後継者』となるための知識も手に入れたのだからな」
「え…?」
ユーノはぎょっとして必死に目を開け、『太皇』を見つめた。相手の静かな声に、今までのことが次々と思い出されてくる。
ラズーン…伝説を生む地…泉……枯れかけた聖なる泉…『銀の王族』……視察官……そして、正統後継者のみが知る、ラズーン存続の真の意味……二百年祭の持つ重い運命。仕組まれたというには、あまりにも遠大な、種の未来への賭け。
「では…」
一言呟いて、ユーノはことばを失った。
どこからともなく入って来るひやりとした空気の流れに、頬に流れた涙の跡が冷たく乾いていく。片手を上げて、手の甲で頬を拭いながら、心の奥深くにあった淡い色彩のものが砕け散るのを感じた。拭ったばかりの頬に、そんなつもりなどないのに、再び次々と涙が流れ落ちる。
「来なさい」
無言でそれを見つめていた『太皇』は唐突に命じると、くるりと背を向けた。はっとして、ユーノは白いベッドを滑り降り、白亜の床に裸足を置いた。
「!」
先ほど額から走ってきたような衝撃が、今度は爪先から駆け上がってきた。とっさに息を詰め、それを堪えたユーノは、数歩先を歩む『太皇』に遅れまいと、もう片方の足を急いで踏み出す。
「う…っ」
床に両足を付くと、この建物が力の集積地であるということが体で理解出来る。途轍もない力が足を伝わり、体の全てを振動させて、頭の天辺に向けて走り上がっていく。髪の毛が、いや皮膚の産毛一本一本が細かな震えに立ち上がっていきそうだ。
(ここは……双宮の中……でも、以前来た時は、こんな感じは受けなかった)
「……『銀の王族』を呼び入れる時には、ここの力を一時的に封じ込めるのじゃ。それに、『銀の王族』にはその苦痛を味合わせることがないように、催眠状態になってもらうのだ」
ユーノの想いを読み取ったように、『太皇』は応じた。肩越しに投げかけられた瞳は、優しい中に冷たく厳しい光があった。
「じゃが、お前は、今違う一歩を踏み出そうとしている。わしはここの力を封じておらん。『聖なる輪』のせいで、少しは楽なはずだ……自分の力で付いて来なさい」
声は厳然とした響きを持っていた。
(リーソン…)
ユーノは手を上げ、額の輪に触れた。ぴりりっ、と指先に痛みが走り、慌てて指を離す。続いてもう一度、ゆっくり、指先に力を込めて輪に触れた。
「………」
今度は痛みは来なかった。代わりに吸いついてくるような奇妙な親和力を持った感触が、ユーノの指先に広がった。どこか冷たい、それでいて、何の抵抗もなく指先の細胞に溶け込んでくるような感覚。
いや、逆かも知れない。
ユーノはぼんやりと思った。
(指先から、この輪の中へ溶け込んでいく)
そして限りなく、ユーノの中の何かは循環を繰り返していく………人の世に紡がれる生と死のように。
ユーノはきゅ、と唇を噛み、輪から手を離して顔を上げた。待っている『太皇』のもとへ、一歩また一歩と歩み始める。足先の痛みに似た力の波動は、一歩ごと繰り返しユーノの体に波紋のように広がった。
魚みたいだ。
(なに…?)
陸へ上がった最初の魚だ。
唐突にそんな想いが湧き上がる。それは知識や経験の中からというより、本能の遥か遠い闇の中からにじみ出て、ユーノの心を不思議な感動で満たした。
「来なさい、ユーノ。我がラズーンの『正統後継者』となるものよ」
『太皇』の声が強く重く、ユーノの鼓膜を震わせた……。
あれから3日。
ユーノはこの建物の一室を与えられ、『太皇』から『正統後継者』として知っておくべき幾つかのことについて、教えを受けていた。
(私が『正統後継者』になる…)
この世の全てをあまねく治める統合府ラズーン、その頂点の長たる『太皇』、そして、その地位を継ぎ、次代の『太皇』となるべき『正統後継者』。
「わしは、既に長く余を治めた」
ユーノの迷いを見抜いたように、『太皇』は低い声で続けた。
「およそ、『200年』の長きに渡って、な」
「え…?」
ぎょっとして振り返るユーノを、『太皇』は落ち着いた目で見つめ返した。