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「ほほほ……案ずるな、アシャ」
「ラ、フィンニ…」
掠れた声に懇願が混じったのを感じた。交渉の失敗を予感する。自分をののしる、今どうしてそれほど頼りなげな声を出すのか、と。
「何も一言も話しかけるなと言っているのではない。だが、あの娘に、そなたの想いを決して悟らせるなと言っておるのだ」
「……なぜだ」
「…我ら『泉の狩人』(オーミノ)は、世の始めより、たった1人の王を待っておった」
ラフィンニが声を翳らせる。
「己の心の魔に負けぬ、『大いなる沈黙』を貫ける者を。『太皇』かと思いもした。そなたかと思ったこともあった。だが、何かが合わなかった。そして、あの娘を『沈黙の扉』に封じて心を責めながら、我らはいつしか悟っていた、この娘だ、と」
ふ、とラフィンニはどこか陰気な笑いを浮かべた。
「我らは『女』なのでな、やはり『男』の沈黙には、納得できかねるのだ」
「それがどうして、俺の、ユーノへの想いに繋がる!」
叫ぶつもりはなかったのに、ことばは唇を衝いた。
アシャとて、気楽にユーノに想いを重ねてきたのではない。始めは同情、次には好意、だが繰り返し距離を縮め近づき抱くにつれ、ユーノの中に自分の運命が描かれているのに気づき始めた。1人で居るときには見えなかった己の本心、真実の願い、切実で、けれども何ものにも代え難い祈りが、ユーノに触れ、ユーノと接し、ユーノと関わる中で、まるで鮮やかな物語を紐解くように現れた。
そうだ、アシャは今初めて、『アシャ・ラズーン』という存在を生きようとしている。無視され続け、殺され続け、亡き者にされていた命が、今ようやく芽吹き、力を得て伸びつつある。
そして、それは全て、ユーノ・セレディスというただ1人の娘の手を取ることで始まった物語なのだ。
それを失う恐怖は、アシャの全身を戦かせる。
アシャの煩悶を、ラフィンニは悉く見破っているかのように、しばらく沈黙した。
やがて。
「我らが王と認めた以上、王を守るのは我らが務め」
「それがどうした」
「……あの娘には、愛している者がいるようじゃ」
「っっ!」
びく、とアシャは体を強張らせた。
「それがそなたかどうかは知らぬ。じゃが、もしそなたではなかった時、想いを告げられて苦しむのは、我らが王…」
「………」
目を見開く。
がさり、とアシャの胸から巨大な影が剥がれ落ちた。
(俺は、また)
またもや、自分のためだけに、ユーノを求めようとしていたのか?
「……………」
反論が、できない。
「それを守るとなれば、封じた10人も納得しよう。我らが王を、しばしそなた達に委ねることも頷こう。が、その沈黙さえ守れぬとなれば」
ラフィンニは長い髪をさらりと払った。
「既に王は満身創痍じゃ。傷む心は我らが力をもってしても、癒されぬほど深くささくれだっておる。今はまだ、王は自らの誇りゆえに死を選ぶことはない。しかし、長い旅を共に続けて来たそなたが、王の傷も考えずに、今のように無遠慮に求め踏み込んでしまえば、新たに深く重い傷をつけるのは必至」
のう、アシャ。
「私はそなたの気性を読み損なってはおらぬはず。じゃが、そなたは今までそなたを想って受け入れられず、なおもそなたの側に居なくてはならぬ苦しみを考えたことはないだろう。それはな、どれほど強き心も挫く、鋼の楔よ」
「…………」
「我らが王は、おそらくはそれを知っておる……ゆえに、もしそなたの想いに応えられぬとなれば、王は我が身を削るように苦しむことじゃろう……長き旅を続け、命の狭間を共に手を携えて切り抜けて来た、かけがえのない友、ゆえに、な」
「………………」
次第に俯いていくアシャに向けて、ラフィンニのことばは激さなかった。
まるで遠い昔にそっくりの出来事を経験した知恵者のように、深く重く柔らかく、けれど断固として揺るがない意志を秘めて続く。
「あれほどの傷む心に、新たな傷を加えるよりは、手を尽くして我らの王として頂き、この『狩人の山』(オムニド)の聖女王としてこそ、世に名を遠く広めさせよう」
ラフィンニの声を頭上に、アシャの脳裏に旅の場面が次々と過っていく。
いつもいつも、アシャの腕を擦り抜けていくユーノ。
アシャの知らぬところで傷つき倒れ、血を流しているユーノ。
そのユーノに、アシャは何ができたのか。
(俺は……狡い)
ユーノのためには『泉の狩人』(オーミノ)の聖女王に納める方が安心だ。世界の動乱は激しくなるだろう。ラズーンの安全領域も守られなくなるだろう。ラズーン支配下にあっては、その中で、ユーノが傷つかない可能性は無に等しい。
(俺は、さもしい)
それでも、アシャは、ユーノが欲しい。
(俺は、自分勝手で、独りよがりで)
ユーノが側に居てくれさえすれば、アシャはまだ自分を失わずに済む。
(お前が…俺を守っているんだ、いつも、いつも)
アシャの唯一無二の存在意義を。
世界を滅ぼす、魔物にならずにすむ、道を。
そうしてまた、アシャは、ユーノの安寧よりも、自分の願いを取る愚かな自分に気づいてしまう。
(ユーノ)
この名はもう封じられる。
(ユーノ…俺の、ユーノ)
それでも、側には、居てくれるのだ。
「……わかった」
低い声で同意した。
「俺は、ユーノへの想いを、二度と告げはしない」
「ほ、ほほほほほ!」
ラフィンニは高らかに笑った。
「それでこそ、名に知れた戦士、アシャよのう? ……誰かおらぬか?」
「は、ここに」
「おおセール。アシャ殿を『沈黙の扉』にお連れしなさい」
「では!」
弾んだ声が喜びを放つ。
「そうよ」
ラフィンニは含み笑いをする。
「アシャ殿は、我らの代わりにユーノ様を守ると約束してくれたのだ」
「それはそれは有難き! アシャ殿、我ら一同、心より感謝申し上げますぞ」
うわべばかりを持ち上げた声にぎしり、と奥歯を噛んだ。
「……失礼する」
立ち上がる。視界が薄闇に閉ざされそうになるのを懸命に堪える。
(俺が、ユーノを、護る)
確かにそれは願ったことではあった。
だが、こんな形で望んだものではなかったのだ。
(俺は…影になる)
ユーノという光の背後を常に護る一つの影に。
その想いが呼び寄せる危うさを、アシャはまだ気づかない。
「ほほ……ほほほほ……ほほほほほほ……」
背後に響くラフィンニの笑い声に振り向くこともなく、アシャは重い足取りで部屋を出て行った。




