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「……お許しを」
念を込めていたセールが、低く呟いて胸の前で交差させていた腕を解いた。水鏡を見つめているラフィンニに深く頭を下げる。
「私は、これ以上、この少女を追い詰められませぬ」
死の国の風を思わせる声が、まるで涙をこらえているように滲んでいる。
「狩人の名を剥ぎ取り、ミネルバと同じく、ラズーン支配下へ放逐して下さいませ。私は、この少女の『沈黙』に負けました」
項垂れて膝を突く。
「長ラフィンニ…」
デーディエトも交差させていた腕を離した。空ろな眼窩の奥に淡い光を煌めかせて許しを請う。
「私もラズーン支配下にお放ち下さい。『泉の狩人』(オーミノ)に価しないものでございます」
「……して、どうする」
ようよう、ラフィンニが深く重い声で応じた。
「そなた達もミネルバのことは聞いて知っていよう。あやつは、『泉の狩人』(オーミノ)としての沈黙の掟を破り、気ままに世の『運命』を狩っておる。我らは、この世にあってはあくまで異種族、この『狩人の山』(オムニド)でこそ、かろうじて己の魔を封じ、沈黙を持って生き抜ける。『狩人の山』(オムニド)を降りれば、我らに残された道は、人の世の闇を跳ぶ魔物として、おぞましい一生を終えるしかない」
ラフィンニの口調には,今まで聞かれたことのない、深い哀しみがあった。
「『運命』に降りようとラズーン側につこうと、我らの力は所詮闇のもの、この世ならぬ力じゃ。放たれれば魔となり、止める術を知らぬ。それは、この世の始まり、『氷の双宮』が星の住みかとなりし時からの我らが定め……。我らがつけば、その者達は勝利を得よう。したが、勝利を得た者が聖なる者とは限るまい。我らの力は、邪悪をも正義にしてしまい……我らの存続を許し得た星の祈りに背くことになろう。それゆえに、我らは『狩人の山』(オムニド)の奥深くにて息を殺し身を潜め、時折迷い来る旅人を屠るのみで満足し、沈黙を守り続けたのではなかったのか」
ラフィンニは水鏡を覗き込んだ。
「けれども、長よ」
セールが慌ただしく抗議した。
「この少女の『沈黙』をご覧下さい。私は、この少女の『沈黙』にこそ従いましょう。この少女が命ずるままに、この手足を動かしましょう。そうしても、まだ私達は魔でしかありえないものでございますか?」
「魔でしかありえない」
ラフィンニは冷ややかに切り捨てた。
「どう理由をつけようと、我らは魔の者、人の生き血を啜り、死を喜び、夜の訪れを待ち望む者じゃ。……それに、この少女、もはや保つまい。シャギオが手加減はしたものの、あの一瞬、あの娘の心に死の予感を送り、動きを止めさせたのは、語ることなくとも知っておるぞ、ウォーグ」
セール、デーディエトとほとんど同時に交差の腕を解いていたウォーグが項垂れた。
「のう? 愛する者を失う哀しみに、奪おうとする者を憎むのはよくあること、しかし、それに死を伴わせるのは、やはり、魔の力じゃ」
水盤の周囲に集まっていた10人の『泉の狩人』(オーミノ)のうち、5人までが念を送るのを止めて、ラフィンニを見上げている。
「『死の女神』(イラークトル)はあの少女を抱きかかえて嗤い続けておろうよ、我ら『泉の狩人』(オーミノ)の甘さをな」
ラフィンニは、しばらく無言で水鏡を見つめていた。
氷の岩屋、横たわる少女、その周囲には天井から抜け落ちて突き立った水晶の六角柱。
「……何と言う誇りであろうな」
やがて、低い呟きがラフィンニの口を突いた。
また2人、念を込めるのを諦める。
「我らがこれほど禍々しい死の傷みを送り続けていると言うのに、あの娘、ただの一度でも救いを求めたか?」
「……」
「愛する者がいぬわけではなさそうじゃ。しかし、死に瀕しても、その名を呼ばぬ。………もっとも、呼んだが最後、声の響きに揺さぶられて、天井の水晶が、その想いもろとも体を打ち砕くが」
くっくっく、とラフィンニは堪え切れぬ楽しいものを想像したように笑った。が、すぐに生真面目な気配になって、
「じゃが、それに気づいてはおらんだろう。ただ、自分を救いに来る者を巻き込むまい、それだけのことで誰も求めぬ。どのような理由かは知らぬが、愛する者の名さえも心の奥底に沈めてしまい、『死の女神』(イラークトル)にしか見せぬつもりらしい……魂の絶望にさえ無言で耐え抜き、ただ死を待っておる……」
また2人、『泉の狩人』(オーミノ)が交差させた手を解く。間もなく、最後の1人が念を解いた。
「して、我らは皆、あの娘に負けたというのか」
「はい」
最後まで手を解かなかったカイルーンが悔しそうに応じた。
「あの少女に、死の恐怖と、そこへ自分を追いやった人々への憎しみを送っておりましたが、あの娘の望みはただ一つ、自分の死によって、家族や親しい人々を守ることしかございませぬ。そのための死に、悔い一つもございませぬ。つまりは…」
「決して、魔には屈せぬと言うのだな? 自己憐憫という、この上なく優しい魔にも身を任せぬ、と」
ラフィンニは微かに微笑んだようだった。
「……まさか、あのような小娘が『大いなる沈黙』を達するとは……のう」
「え?」「それでは長!」
はっとしたように、セール、ウォーグが声を上げる。
「うむ、我らは…」
「長、ラフィンニ!」
ラフィンニが頷き、何事か語ろうとしたその時、慌ただしく1人の『泉の狩人』(オーミノ)が、青衣の裾を蹴立てて部屋に駆け込んできた。
「何事じゃ、騒々しい」
セールが咎める。
「も、申し訳ありませぬ、しかし」
飛び込んできた狩人は、詫びはしたものの神経質に戸口の方を振り返りながら応じる。
「しかし、何じゃ」
ただ事ではないと察したラフィンニが進み出る。
「そこに、あ…」
「あ?」「失礼する、長、ラフィンニ」
その先はもう聞くまでもなかった。
うろたえた狩人の背後からふらりと現れたのは、乱れた金髪に瞳を暗く輝かせる、猛々しいアシャの姿だった。