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ユーノがセシ公の館を発ってから3日目。
「では、どうしても行かれますか」
「ああ」
館の入り口には馬の手綱を握りしめて立つアシャ、それを見送るセシ公とレアナ、イルファの姿があった。陽射しは金、アシャの髪に細かな粉のように煌めきまとわりついてくる。
「レアナ姫をよろしく頼む」
「わかりました」
「おう、まかせとけ」
柔らかに頷くセシ公、イルファがどん、と勢いよく胸を叩く。
「俺が必ずミダス公の屋敷まで連れていく」
「気をつけて下さいね、アシャ」
レアナがひたむきな瞳でアシャを見つめる。軽く組んだ白く長い指に祈りを込めるよう力を込める。
「どうか無事に帰ってきて下さいね」
頷いて馬上にひらりと飛び上がる。左胸の傷が鈍痛を訴えたが、それより気になるのは、『狩人の山』(オムニド)へ出かけたまま、未だに連絡のないユーノのことだった。
(『泉の狩人』(オーミノ)が気づかないはずがない。気づいてシズミィを差し向けないはずがない。使者と知って用件を聞き、『狩人の山』(オムニド)を下らせるのに、こんなに時間がかかるわけがない)
ミダス公の屋敷、『氷の双宮』、どちらにせよ、帰り着き次第サマルカンドが知らせにくるはずだったが、澄み渡り、少し冷え込んだ朝の大気の中に、白い羽ばたきはちらとも見えなかった。
(遅い、遅すぎる)
心臓の真裏に冷えた感覚、何かの手を打ち損ねたのではないかという恐怖がある。
「アシャ…」
つい、とセシ公が進み出てきたのに、身を屈めた。さらりと髪を払った相手が、傍目には口づけでも贈るのではないかという艶かしさで薄く微笑み、低く声を潜めて囁いてくる。
「例の件、手を回して調べさせます。リヒャルティも、あれでなかなか忍びの術は心得ていますから」
「頼む」
アシャも静かに頷く。
「事と次第によってはラズーンの存亡がかかる」
「アシャ・ラズーン」
離れながら、セシ公は笑みを含んで応じる。
「やはりあなたには、視察官より、そっちの称号の方がお似合いですよ」
苦笑してアシャは身を起こした。
「では頼む!」
「はい」「おう!」
「気をつけて、アシャ」
レアナの可憐な声を背中に、アシャは馬の速度を上げた。
リ…イ…イ…ィン……リィ……イイ……イン……。
「?」
ミダスの花苑で花を摘んで来たリディノは、鈴のように澄んだ音が微かに響いているのに回廊で立ち止まり、一つの部屋を覗き込んだ。
「レス?」
「リディ」
敷物の上に腰を降ろして膝を抱え、小さな棚に載っていたものを見つめていたらしいレスファートが、びくりとしたように銀髪を揺らせて振り返る。その瞳に不安そうな色がたたえられているのに気づいて、リディノは向きを変えて部屋に入った。片手に抱えていた花々の香気が、たちまち部屋中に芳香を満たす。
「どうしたの?」
「うん……また鳴っているんだ、これ」
レスファートが指し示したのは、ユーノが外しておいていったもの、透き通って光を反射させている『聖なる輪』(リーソン)だ。少年は落ち着かなげに、棚の『聖なる輪』(リーソン)とリディノを見比べた。
「また?」
「4、5日前から、こんな風にね、ときどき鳴るの」
アクアマリンの瞳をじっと『聖なる輪』(リーソン)に据える。
「それが、何だか、だんだん弱くなっていくみたいなの」
「ほんとう……弱々しい音ね」
膝を折り、薄紅の衣の裾を広げ、リディノも腰を降ろした。
「でも、『聖なる輪』(リーソン)が鳴るなんて、聞いたことがないわ……あ、ジノ」
「はい?」
リディノがレスファートと話し込んでいるのをみやり、自分の用はないものと思ったらしいジノが通り過ぎていこうとするのを、リディノは呼び止めた。いつもと同様、薄緑色の長衣の腰に深草色の帯、長い黒髪には深草色の布を巻きつけている。少年じみたしなやかな動きで、リディノの側で片膝を突き、頭を下げた。
「御用でしょうか、姫さま」
「おまえ、『聖なる輪』(リーソン)が鳴るなんて、聞いたことがある?」
「『聖なる輪』(リーソン)が? ……いえ…」
ジノは顔を上げてきょとんと眼を見張り、緩やかに首を振った。深い青の瞳を瞬く、静かな物腰はリディノよりも大人びたものがある。
「『聖なる輪』(リーソン)はあまり詩にも謳われておりませんし……あ」
ふとジノは眉を寄せ、何か思い出したようにことばを切った。その先を続けようとしたとたん、屋敷の入り口あたりでざわめきが起こる。
「……のか?」
「アシャだ!」
響いた声にレスファートがぴょんと跳ね上がった。
「アシャ兄さま?」
すぐさま駆け出すレスファートの後を追って、リディノが部屋を出た時には、既にレスファートは回廊を曲がってきたアシャに飛びついていた。
「アシャ!」「つっ」
飛びつかれたアシャが顔を歪めて一瞬体を捻る。その肩に乗っていたサマルカンドが一緒にグギャ、と奇妙な声を上げて体を揺らせ、慌てて体勢を整える。
「どうしたの?」
「…いや、何でもない」
戸惑う少年に、アシャがすぐに笑みを返した。
「元気そうだな、レス」
「うん! ユーノ、どこ? 一緒だったんでしょ?」
アシャの背後から今にもやってくるかと後ろを覗き込むレスファートに、アシャが険しい顔になる。
「やっぱりまだ帰ってないのか」
「クェアッ!」
眉を寄せたアシャ、鋭い警告のような叫びを上げたサマルカンド、その2人を見上げ、レスファートがようやく異常事態に気づいた。
「……帰ってないって………ユーノと一緒じゃなかったの?」
ゆっくりと固く握りしめられるレスファートの拳を見て、アシャは奇妙な表情になった。まるでののしられるのを覚悟している小さな子どものような顔。
その後ろから、ゆったりとしたいつもの歩調で、ミダス公がやってくる。
「……いろいろと、事が起こって、な」
「だからぼくを置いていったんだ?」
珍しく言い訳がましいアシャの口調を感じ取ったのだろう、レスファートが早速ふて腐れた。さすがに苦笑を返し、まあ、レス、とアシャが声を変える。
「話すから、最後まで聞いてくれ」
アシャがこんな前置きをすることなど滅多にない。リディノは緊張してアシャを見つめ返す。だが、その後語られた物語は、彼女の想像を遥かに越えていた。