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「は…あっ…」
喉が焼けついてくる。肺は熱く炎を発し、心臓は今にも破裂してくれようと抗議の声を上げている。それに反して、冷えきった四肢は思うように動いてくれず、雪は柔らかい褥を思わせ、何度となくユーノを誘っている。
(もう少し……もう少しだ)
繰り返し疲れたことばを胸の中で呟く。
「っ!!」
ふわりと体重がないもののように舞い上がったシズミィが、空中で身を捻り、尖った金の爪と真っ白な牙を剥き出して、再びユーノに襲いかかった。握った柄を右に振り、倒した刃を相手に向け、顔の前で攻撃を防ごうとしたユーノ、だが、それを待ち構えてでもいたように、その剣の刃にすとっ、とシズミィが飛び降りてくる。
「くっ」
思いも寄らぬ攻撃に動けなくなった。シズミィが乗っているというのに、剣は軽い。だが、そのまま引き抜けるかと言えば、動かせない。目に見えない網に剣もろとも包まれたようだ。右手で剣を掲げ、そこに乗ったシズミィと相対したまま、ユーノは顔を強張らせる。と、まるでそれを計算していたのだと言いたげに、にやり、とシズミィは口を歪めた。改めて剥き出された牙、煌めく瞳は魔の影を宿して金と青、残虐な喜びを溢れさせてこちらを凝視してくる。
(どうする)
はあはあと整い切らない呼吸をもどかしく繰り返しながら、ユーノはシズミィの眼を見つめていた。
(どうする)
胸の中央で打ち鳴らされる鼓動が、弔いを知らせる鐘のように聞こえる。背骨の付け根が死の予感に竦んでいる。
(どうする)
強張った頬に、つうっ、と額から汗が流れ落ちる。顎へと滑り落ち、ぽとりと雪に落ちる、その柔らかな音までが耳に届く静けさの中、体だけが忙しく慌ただしい命の刻みを続けている。
(コワイ)
胸の底で怯え続けるもう1人の自分を感じた。自分で自分の胸を抱いて、震えながら訴えてくる。
(コワイヨ)
逃げ場はない。対応を間違えれば死ぬしかない。今自分が掲げる剣の先に、死は猛る獣の姿をとって消えることなく居座っている。
(眼を、逸らすな)
もう一つの声が囁いた。
ごくり、と唾を呑み込む。振動で剣が震えそうで力を込める。イズミィの体重は依然露ほどにも感じない、だが、まっすぐに掲げている腕に、剣そのものの重みが次第に次第に増してくる。
(眼を逸らすんじゃない)
呼吸を整える。瞬きをゆっくりする、けれど、視線を外さない。対峙するシズミィの目の中に、どれほど残酷な未来が待ち構えていようと、どれほど深い闇が潜んでいようと。
(逸らせば最後、こいつは私を襲ってくる)
ユーノの思考を読んだかのように、シズミィは僅かに耳を倒し、ゆっくりと尻尾を持ち上げた。銀青色の毛に包まれた、鞭のように柔軟なその長い尾が、じわじわとユーノの首に近づいてくる。まだ触れてはいない、だが、気配に皮膚が粟立つのがわかった。
(!)
突然、ユーノの頭に一つの考えが閃いた。成功するかどうかわからないが、やってみる価値はある。
「……」
無言でシズミィの尾が、首を絞めに来るのを待ち受ける。右肩が鈍痛を訴え、手が小刻みに震え出す。限界に迫る瞬間を、なおも見据えて引き延ばす。
命がぎりぎりと音をたてて引き延ばされていくのを感じた。ぷつり、とどこか、脆い部分の命の糸が一本、音をたてて切れたのがわかる。
ぷつり。ぷつり。ぷつりぷつり、ぷつ、ぷつ、ぷつぷつ……。
その音は、見る見るユーノの心の中で増え、重なり合っていく。過剰な緊張の負荷に耐えかねて、巨大な荷物を支えている縄が、きりきりと鳴りながら次第に解け、切れていくように。
(まだだ)
片目を閉じた。口を噤む。慌ただしく繰り返していた呼吸を呑み込む。今この瞬間、シズミィに意識を集中させているのが精一杯だ。
(マダ…ダ)
既に頭の中は空洞と化し、一層深い心の層には空白の夢魔が喰い込んでいく。シズミィの尾はひどく緩慢に、冷えきった空気の中をのたうつ一匹の蛇のように、空間を泳ぎ渡ってユーノの首に達そうとしている。見えはしないが、和毛が触れるのを感じる。心は恐怖と意志で充満し、だが、その意志もあっという間に活力と意味を失って、ユーノの全てが麻痺し、静止していく。
死の瞬間。
(イ、マ)
囁きは、夢魔に追われて心の奥底へ逃げ込んでいた、怯えた自分から漏れた。たちまち、細胞と心の層を深い下層から沸き立たせて、体中に響き渡る叫びとなる。
(今だ!!)
「っっっ!」「ギャッ!!」
一瞬に全てが起こった。
左手を伸ばす、シズミィの尾を掴む、そのまま全力で左腕を伸ばすとともに右手の剣を跳ね起こす。がつっ、と重い手応えが在り、同時にシズミィの銀青色の体に朱色の飛沫が飛ぶ。ユーノの左手に引っ張られ、右手の剣に裂かれながら振り回され、雪の上に鮮血を散らしたシズミィが声を上げる。左手からするりと尾が抜け落ち、だがしかし、さすがにシズミィは一太刀程度の手傷では怯まない、すぐさま解放された尾を振り、身を捻って雪上に降り立つのももどかしく、跳ね返るように雪煙を上げてユーノに飛びかかってくる。
その攻撃に、疲労し切ったユーノに対抗する術があろうはずもなかった。無防備に左右へ開いた腕、庇うことなく晒された胸に飛びつかれ、顔を歪める。
「ぐ!」
イズミィの爪が衣を裂き、肉の上から肋骨を掴んだ。激痛に跳ねる間もなく、がきりと喉首に牙が食い込む。ごぶっ、と鈍い音がすると同時に、飛びかかったイズミィがユーノが吹き出した血で紅に染まる。
(あ…)
痛みは急速に消えつつあった。のしかかられて背後に倒れる、雪の中に深く埋まる、その衝撃も冷たさも感じなかった。首から溢れる温かな血に唸り声をたてながらむしゃぶりついてくるイズミィの動きにも、不安も恐怖もなく、ただその体が寄り添ってくるのが妙に暖かく感じるだけだ。
手は動かない、足も動かない、シズミィが時折苛立たしそうに頭を押しつけ、なお深く牙を埋めてくるのに顔を仰け反らせる、そのユーノの視界には、薄い雲が漂う静かな空が広がっていくのが映るだけだ。
(……何だろう)
それに気づいたのはシズミィの方が早かったのだろう、ふいに動きを止めて顔を上げる朱に濡れた口許、訝るように再び降ろしてくる顔は、首ではなく、ユーノの額を軽く嗅いだ。
(……鳴ってる…)
視界の色が落ちてきた。見る見る灰色の靄となり、白黒の濃淡も薄れ、ぽたりと落ちる雫に染まって薄赤く滲み、それもすぐに暗闇になり。
リィイ……ィイ…ン。
額で微かな振動が続く。
(『聖なる輪』(リーソン)…?)
「…は…」
ユーノが吐いた息は戻ってこなかった。




