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どこの国の昔語りをする老人でも、ふと口を噤んで話さぬことがある。
まるで、その話をすることで、禍々しい影を呼び込んでしまうと言いたげに話しかけた口を閉ざし、そこから先はいくら可愛い子ども達がせがもうとも、決して続けようとはしない話が。不吉な象徴があたりに現れていないかと周囲を確かめ、幸いにも自分の語りが魔の耳に入らなかったことを知ってほっと胸を撫で下ろし、口にすべきではない物語を思い出してしまった自分を戒める……それほどまでして伝えられるのを防がれながら、なお幾世代もの人々の胸に受け継がれていく言い伝えというものが。
『狩人の山』(オムニド)についての話は、そのような話の一つだ、と誰もが言うだろう。
「オムニド?」
『氷の双宮』の中の建物の一つの窓から、じっと外の白亜の建物群を眺めていたユーノは、『太皇』の声に振り返った。
「……アシャはそこへ行ったのですか?」
まっすぐに問う。
「そうじゃ……狩人の山とも呼ばれておる」
『太皇』は、白髪と長い白い髭の中から、静かな声で応じた。
二人が居るのはこじんまりとした清楚な一室だった。
『氷の双宮』にある建物の常、白い石で組み合わされ形づくられた床、壁は見事な浮き彫りで飾られ、眩いほど白い織物、淡い水色の濃淡の壁掛けが配置されている。部屋には広い窓一つ、白いベッド一つ。部屋の隅には、寛ぐためだろう、敷物を重ねて背もたれを置いた一画がある。
そこは、ラズーンの『洗礼』から目覚めたユーノが与えられた一室だった。
『太皇』は隅の背もたれのあたりに座して、穏やかな目でユーノを見返した。
「一人、で…」
呟いたユーノの出で立ちは白い少年用のチュニック、額には正統後継者候補が、その教育を受けていることを示す『聖なる輪』をはめている。蒼みがかった透明な輪で、陽光が差し込むと乱反射して、きらきらと眩い光を放つ。
「……」
無意識にそれに指を触れ、ユーノは思い出すともなく、3日前、『洗礼』の後の眠りから目覚めたときの事を思い出していた。
「ふ…」
目を開ける。
とたんに激しい動揺と興奮が体中を駆け巡り、こらえようのない熱さが手足の先まで満ちて、ユーノは唇を噛み、身悶えした。
「あ…あ…」
心の中が焼き焦がされる。心の奥底に秘めていたこと全てが白日の炎天下に晒され、影を地に刻むまでに照らし出されているような感覚、右肩の傷を抉り直された時よりももっと激しい、もっと捉えどころのない熾烈な痛み。
心が開放され切っていて、魂を憩わせる空間が剥ぎ取られる。外界の全てが心の中に容赦なく踏み込んで来て、それと同時に今まで抱き締めていた全てのものが奪い去られていく。
熱いものが続けさまに頬を伝わり、胃を絞り上げて湧き上がる。
「うぐっ…」
吐こうとしても吐くことが出来ず、胸の中で燃え続けるものを押さえつけるように胸を抱いて、ユーノはもがき続けた。
「、!」
荒い息をつきながら、滲み、流れ落ちる涙と汗とに塗れていたユーノは、唐突に額にあてられた手にびくっと体を震わせた。
「あ………あ……」
まるで、それが熱を取り去っていくかのように、みるみる体が冷えて来た。中心で燃えていた苦痛も次第に次第におさまっていく。
乱れる息を整えることも思いつかず、茫然とその手の持ち主を探したユーノの目は、白髪と白い髭で囲まれた柔和な目に出くわした。
「ゆっくり呼吸をしなさい」
「……『太皇』…」
「ゆっくり吸って……吐いて……もう一度……」
『太皇』の声にユーノはそうっと息を吐き、よりひそやかに息を吸った。ゆっくりと、ゆっくりと………。自然と目が閉じ、安らかな気持ちになってくる。
「いきなりは無理じゃ。ここは凄まじいほどの力の集積地なのだ。すぐに制御することができたのは、アシャだけだ」
静かに『太皇』の声が諭した。同時に、額にひんやりとしたものが当たる感触があった。
薄目を開けたユーノが見上げると、それは不思議な蒼味がかった透明な輪で、ぴったりと吸いつくように額にはまると、体を襲っていた苦痛や熱っぽさが嘘のように消えていった。
「はあっ…」
大きく深い息を吐いて、ベッドの上で体を伸ばす。心地よさに意識が薄れかけた次の瞬間、自分がどこにいるのかを思い出して、ユーノは勢いよく跳ね起きた。