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ラズーン 4  作者: segakiyui
8.使者
65/89

6

「ふ、…うっ!」

「起き上がらぬ方がいい」

 水底から浮かび上がってきた泡が弾けるように、深い息を一瞬に吐いて薄く目を開けたアシャは、次の瞬間跳ね起きようとして、左胸の抉られたような痛みに呻き、体を仰け反らせて沈み込む。

 何が一体起こったのだ、その思いは甦った記憶に一気に溶ける。

(くそっ……ユーノの奴!!)

 周囲にあるものをあれこれ構わず殴りつけたい凶暴な感情が爆発する。下唇を噛み、無言で心と体の激痛に耐えていたアシャの耳に、最初に制したどこか艶のある声が再び届いた。

「あなたは2日や3日で動ける傷ではないのですよ」

「……」

 明るい陽射しの中、ベッドに横たわったまま、アシャはゆっくりと声の主の方へ顔を向けた。

 相手は、部屋の南の窓枠に片腕を預けて軽く寄りかかり、引きずるほど長い衣を纏った体を滑らかな動きで振り返らせる。今まで光に照らされて頬の白さしか見えなかった顔が、影を帯びて端整な面立ちに切り替わる。

「…セシ公」

 重い溜め息とともに呟いて、アシャは全てを理解した。

 では、あの、こまっしゃくれた、自信過剰の、無鉄砲で死にたがることしか考えない『クソガキ』は、アシャを当て身で倒した後のこともしっかり配慮していったというわけだ。

「その様子では…」

 セシ公は、年若いが妙に表情の読めない目に笑みを浮かべ、ことばを継ぐ。

「何があったか、おわかりですね?」

「ああ」

 我ながら苦々しい声、唸るように応じて、体に掛けられていた白い布から片手を抜き出し、額から後ろへ乱れた髪をかきあげた。

「わかっている。ユーノは…」

 正直なものだ、詰るつもりで口に出した名前だけで、声が心配を宿す。

「もう行ったのか」

「はい、昨夜のうちに」

 知っていたのならどうして止めなかった、そう怒鳴りつけそうになるのを逸らすために、旅路を急ぐ少女の姿を思い描く。

(ユーノのことだ、もう今頃は『氷の双宮』に辿り着いているはず……いや、『狩人の山』(オムニド)に入ったか)

 目まぐるしく回転していく思考と同時に押さえ切れぬ不安が、澄み切った水に落とした染め粉のように見る見る心を曇らせていく。

(どうして、無茶をする)

 まるで傷みなど知らないような顔で。

(どうして俺を置いていく)

 奥歯を噛み締め、目を閉じる。もちろん、今回は自分が傷を負ったことがへまの大元だ、それはわかっている、だが。

(俺の方がもたない)

 ユーノが引くわけがない、たとえ『泉の狩人』(オーミノ)を前にしようとも。そして、『泉の狩人』(オーミノ)はそういう『跳ね上がりの子ども』を好まないのに。

(なぜわからない)

 唇から溢れそうになる、年甲斐もなく、恥も外聞もなく泣き喚きたくなる。

(お前の屍体を抱くなぞごめんなんだ、おれは!)

 それぐらいなら、ユーノとともに百万の軍勢に向かうほうが余程気楽だ、背中にユーノを庇ってさえいれば、アシャは指一本になっても戦い抜く。

(お前はおれの主人だろうが)

 なのになぜ、主が従者の先を往く?

「く…そ…っ」

 がしりと前髪を掴んだ。

 わかっている、それがユーノだ、だからこそ惹かれ、だからこそ従い、だからこそ命にかえても守ろうとする……だが、この主は差し伸べ懇願する手を軽々と越えて駆け去っていってしまう。

(なぜ、わからない!)

「アシャ・ラズーン」

「……」

 静かに声をかけられ、我に返って手を放した。振り向いて、セシ公にしては、珍しく驚くほど無防備な感情を出した目でこちらを見つめているのに気づく。

「あの子は、一体どういう娘なのです?」

 アシャは僅かに眉を上げた。無言の促しに、セシ公は憂いを浮かべてことばを続ける。

「ご存知の通り、私もラズーンの情報屋と呼ばれた人間、通り一遍の人間は見て来てはいるが」

 困惑を響かせる声に、アシャは無意識に唇を歪める。

「だが、あんな娘……あの若さであそこまでの覚悟と腕を備えている……それも、少女、というのは今まで見たことがない。一体、彼女はどういう育ち方をした娘なのですか?」

「……常に誰かを護ってきた娘だよ」

 胸の底に甦るユーノの視線、ほんの数回しか見せることのなかった、何かを捜し求めてすがるような瞳を思い出す。

 あれは、何を探していたのか。

「誰かを護ることしか知らない……自分もまた護られるに価するのだとは、思いもしない娘だ」 

 傷に一人で唇を噛んで耐える。細い体に一生消えぬ傷痕を幾つも刻みつけられてもなお、華奢な両腕を伸ばせる限り伸ばして、ただひたすらに愛しい人々を護ろうとする。

『ボクはね…』

 遠い声が鼓膜の底で聞こえる。

『姉さま達が好きなの、セアラが愛しい…』

 どこまでも続く緑の草原の中、青空の彼方の地平にじっと瞳を凝らしながら語る、淡々とした声。何を見ているのか、何を探しているのか気になって、隣で一緒に地平を見つめていた。

『だから護りたいんだ……それだけ、なんだ』

 ボクという男ことばには違和感がなかった。それでもその一人称にはひどく寂しい響きがあって、思わずユーノを見やると、吹き過ぎる風に焦茶の髪をなびかせ、地平よりもなお遠くを眺める目になって、

『それだけなんだ』

 ぽつりと一言、繰り返した。

 それがまるで自分に言い聞かせてでもいるように深い翳りを帯びていたから、アシャは思わず問いかけようとした、じゃあ、お前は誰が護ってくれるんだ、と。

 もちろん、アシャの中では応えは決まっている。

 だがそれを口にする前に、レスファートがユーノを呼び、いつものようににこりと笑ってユーノが応じ……それきり尋ねる機会を失った。


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